らくで、山は元のひつそ[#「ひつそ」に傍点]としたけしきに還る。唯、すべてが薄暗く、すべてが隈を持つたやうに、朧ろになつて来た。
岩窟《いはむろ》は、沈々と黝《くら》くなつて冷えて行く。した した 水は岩肌を絞つて垂れてゐる。
[#ここから1字下げ]
耳面刀自《みゝものとじ》。おれには、子がない。子がなくなつた。おれはあの栄えてゐる世の中には、跡を貽して来なかつた。子を生んでくれ。おれの子を。おれの名を語り伝へる子どもを。
[#ここで字下げ終わり]
岩|牀《どこ》の上に、再白々と横つて見えるのは、身じろきもせぬからだである。唯その真裸な骨の上に、鋭い感覚ばかりが活きてゐる。
まだ反省のとり戻されないむくろ[#「むくろ」に傍点]には、心になるものがあつて、心はなかつた。
耳面刀自の名は、唯記憶よりも更に深い印象であつたに違ひはない。自分すら忘れきつた彼の人の出来あがらない心に、骨に沁み、干からびた髄の心《しん》までも、唯|彫《ゑ》りつけられるやうになつて残つてゐる。
四
万法蔵院の晨朝《じんてう》の鐘だ。夜の曙色《あけいろ》に一度|騒立《さわだ》つた物々の胸をおちつか
前へ
次へ
全148ページ中54ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング