様の心躍りを、一月も前から感じて居た。さうして日を数《と》り初めて、ちようど今日と言ふ日。彼岸中日、春分の空が朝から晴れて、雲雀は天に翔り過ぎて帰らないほど、青雲が深々とたなびいて居た。郎女は、九百九十九部を写し果して、千部目にとりついて居た。日一日、のどかな温い春であつた。経巻の最後の行、最後の字を書きあげて、ほつと息をついた。あたりは俄かに、薄暗くなつて居る。目をあげて見る蔀窓の外には、雨がしと/\と落ちて居るではないか。姫は立つて手づから簾をあげて見た。雨。
苑の青菜が濡れ、土が黒ずみ、やがては瓦屋にも音が立つて来た。
姫は立つても坐《すわ》ても居られぬ焦燥に煩えた。併し日は益々暗くなり、夕暮れに次いで、夜が来た。
茫然として、姫はすわつて居る。人声も、雨音も、荒れ模様に加つて来た風の響きも、もう姫は聞かなかつた。
二
南家の郎女が神隠《かみかく》しに遭つたのは、其夜であつた。家人は、翌朝空が霽れ、山々がなごりなく見えわたる時まで、気がつかなかつたのである。横佩墻内《よこはきかきつ》に住む者は、男も女も、上《うは》の空になつて、京中京外を馳せ求めた。さうした奔
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