が、宮から召されることになるだらうと言ふ噂が、京・洛外に拡つたのも、其頃である。屋敷中の人々は、身近く事《つか》へる人たちから、垣内《かきつ》の隅に住む奴隷《やつこ》・婢奴《めやつこ》の末にまで、顔を輝して、此とり沙汰を迎へた。
でも、姫には、誰一人其を聞かせる者がなかつた。其ほど、此頃の姫は気むづかしく、外目《よそめ》に見えてゐるのである。
千部手写の望みは、さうした大願から立てられたものだらうと言ふ者もあつた。そして誰も、其を否む者はなかつた。
南家の姫の美しい膚は益透きとほり、潤んだ目は、愈大きく黒々と見えた。さうして、時々声に出して誦《じゆ》する経文が、物の音《ね》に譬へやうもなく、さやかに人の耳に響いた。聞く人自身の耳を疑ふばかりだつた。
去年の春分の日の事であつた。入り日の光りをまともに受けて、姫は正座して、西に向つて居た。日は此屋敷からは、稍|坤《ひつじさる》によつた山の端に沈むのである。西空の棚雲の紫に輝く上で、落日は俄かに転《くるめ》き出した。その速さ。雲は炎になつた。日は黄金《わうごん》の丸《まるがせ》になつて、その音も聞えるかと思ふほど鋭く廻つた。雲の底から立ち昇
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