と繁つた春日山も、既に黄葉《もみぢ》して、其がもう散りはじめた。蟋蟀は昼も鳴くやうになつた。佐保川の水を引き入れた庭の池には、遣り水伝ひに、川千鳥の啼く日すら続くやうになつた。
今朝も、何処からか、鴛鴦の夫婦鳥《つまどり》が来て浮んで居ます、と童女《わらはめ》が告げに来た位である。
五百部を越えた頃から、姫の身は目立つてやつれて来た。ほんの纔かの眠りを摂《と》る間も、ものに驚いて覚める様になつた。其でも、八百部の声を聞く時分になると、衰へたなりに、健康は定まつて来たやうに見えた。やゝ蒼みを帯びた皮膚に、少し細つて見える髪が、愈黒く映え出した。
八百八十部、九百部。郎女は侍女にすら、ものを言ふことを嫌ふやうになつた。さうして、昼すら何か夢見るやうな、うつとりとした目つきをして、蔀戸ごしに西の空を見入つて居ることが、皆の注意にのぼる様になつた。
実際九百部を過ぎてから、進みは一向、はかどらなくなつた。二十部、三十部、五十部、心ある女たちは、文字の見えない自身たちのふがひなさ[#「ふがひなさ」に傍点]を悲しんだ。郎女の苦しみを、幾分でも分担することが出来ように、と思ふからである。
南家の郎女
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