居る間に、才《さえ》優れた族人が、彼を乗り越しかけて居た。姫には叔父、彼――豊成にはさしつぎの弟仲麻呂である。
その父君も、今は筑紫に居る。家族の半以上は、太宰帥のはな/″\しい生活の装ひとして連れて行つてしまつた。奈良の家は、とりわけ寂しくなつて居る。
宮廷から賜つて居る※[#「にんべん+慊のつくり」、第3水準1−14−36]従《とねり》は、大貴族の家々の門地の高さを示すものとして、美々しく著飾らして出入させたものだが、其すら太宰府へついて行つてしまつた。
寂かな屋敷には物音も聞えて来る時すら多かつた。この家の女部屋は、日あたりに疎い北の屋の西側に小さな蔀戸《しとみど》があつて、其をつきあげると、方一間位な※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]になるやうに出来てゐる。さうして其内側には夏冬なしに簾が垂れてあつて、外からの隙見を防いだ。
さうして其|外《そと》は、広い家の外廓になつて居て、大炊殿《おほいどの》もあれば、火焼《ひた》き屋なども、下人の住ひに近い処に立つてゐる。苑《その》と言はれる菜畠やちよつとした果樹園らしいものが、女部屋の窓から見える唯一の風景であつた。
武智麻呂時代から、此屋敷のことを、世間では、南家と呼び慣はして来てゐる。此頃になつて、仲麻呂の威勢が高まつて来たので、何となく其古い通称は人の口から薄れて、其に替る称へが行はれ出したのである。二京七坊をすつかり占めた大屋敷を、一垣内《ひとかきつ》――一字《ひとあざ》と見倣して、横佩墻内《よこはきかきつ》と言ふ者が著しく殖えて来たのである。
太宰府からは、この頃久しく音づれがなかつた。其でも、半年目に都へ戻つて来た家の子は、一車に積み余るほどな家づとを、家の貴公子たち殊に、姫にと言つて持ち還つて来た。
山国の狭い平野に、一代々々都遷しがあつた長い歴史の後、こゝ数十年やつと一つ処に落ちついた奈良の都は、其でもまだ、なか/\整ふまでにはなつて居なかつた。
官庁や、大寺が、によつきり立つてゐる外は、貴族の屋敷が、処々むやみに面積を拡げて、板屋や瓦屋が、交《まじ》り/\に続いてゐる。其外は、広い水田と、畠と、荒蕪地の間に、庶民の家が、ちらばつて見えるだけであつた。兎や、狐が大路小路を駆け廻る様なことは、あたり前である。つい此頃も、朱雀大路《しゆじやくおほぢ》の植ゑ木の梢を、夜になると、※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠が飛び歩くと言ふので、一騒ぎしてゐた。
横佩家の郎女《いらつめ》が、称讃浄土摂受経《しようさんじやうどせふじゆきやう》を写しはじめたのも、其頃からであつた。父の心づくしの贈り物の中で、一番郎女の心を明るくしたのは、此新訳の阿弥陀経|一巻《いちくわん》であつた。
この山の都よりも、太宰府は開けてゐた。大陸の新しい文物は、皆一度は、この遠《とほ》の宮廷領《みかど》を通過するのであつた。唐から渡つた珍品などは、太宰府ぎりで、都へは出て来ないものが、なか/\多かつた。
学問や芸術の味ひを知り初めた志の深い人たちは、だから大唐までは行けずとも、せめて太宰府だけへはと、筑紫下りを念願にして居る位である。
南家《なんけ》の郎女《いらつめ》の手に入つた称讃浄土経も、大和一国の大寺と言ふ大寺に、まだ一部も蔵せられて居ないものである。
姫は、蔀戸近くに、時としては机を立てゝ写経をしてゐることもあつた。夜も、侍女たちを寝静らしてから、油火《あぶらび》の下で、一心不乱に書き写して居た。
百部は、夙くに写し果した。今は千部手写の発願をして居る。冬は春になり、夏山と繁つた春日山も、既に黄葉《もみぢ》して、其がもう散りはじめた。蟋蟀は昼も鳴くやうになつた。佐保川の水を引き入れた庭の池には、遣り水伝ひに、川千鳥の啼く日すら続くやうになつた。
今朝も、何処からか、鴛鴦の夫婦鳥《つまどり》が来て浮んで居ます、と童女《わらはめ》が告げに来た位である。
五百部を越えた頃から、姫の身は目立つてやつれて来た。ほんの纔かの眠りを摂《と》る間も、ものに驚いて覚める様になつた。其でも、八百部の声を聞く時分になると、衰へたなりに、健康は定まつて来たやうに見えた。やゝ蒼みを帯びた皮膚に、少し細つて見える髪が、愈黒く映え出した。
八百八十部、九百部。郎女は侍女にすら、ものを言ふことを嫌ふやうになつた。さうして、昼すら何か夢見るやうな、うつとりとした目つきをして、蔀戸ごしに西の空を見入つて居ることが、皆の注意にのぼる様になつた。
実際九百部を過ぎてから、進みは一向、はかどらなくなつた。二十部、三十部、五十部、心ある女たちは、文字の見えない自身たちのふがひなさ[#「ふがひなさ」に傍点]を悲しんだ。郎女の苦しみを、幾分でも分担することが出来ように、と思ふからである。
南家の郎女
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