内になる土地の縄張りの進んでゐる最中、その若い貴人が、急に亡くなられた。都からお使ひが見えて、其ほど因縁の深い土地だから、墓はそのまゝ其村に築くがよいとのことであつた。其お墓のあるのが、あの麻呂子山だと言ふ。其縁を引いて、其郷の山には、後にも貴人をお埋め申すやうな事が起つた。
だが、此は唯、此里の語りの姥の口に、さう伝へられてゐると言ふに過ぎないことであつた。纔《わづ》かに百年、其短い時間も文字に疎い生活には、さながら太古を考へると同じことである。
旅の若い女性《によしやう》は、型摺りの美しい模様をおいた麻衣を著て居る。笠は浅い縁《へり》に、深い縹《はなだ》色の布が、うなじを隠すほどにさがつてゐる。
日は五月、空は梅雨《つゆ》あがりの爽やかな朝である。高原の寺は、人の住む所から、自ら遠く建つて居た。唯凡、百人の僧俗が、寺中に起き伏して居る。其すら、引き続く供養饗宴の疲れで今日はまだ、遅い朝を姿すら見せない。
女は、日を受けてひたすら輝く伽藍の廻りを残りなく歩いた。
寺の南境は、麻呂子山の裾から、東へ出てゐる長い崎が劃つて居た。其中腹と、東の鼻とに、西塔、東塔が立つて居る。丘陵の道をうねり乍ら登つた旅びとは、東塔の下に出た。
其でも薄霧のかゝつたやうに、雨の後の水気の立つて居た大和の野は、すつかり澄みきつた。
若昼のきら/\しい景色になつて居る。左手の目の下に集中して見える丘陵は、傍岡《かたをか》である。葛城川もほの/″\と北へ流れて行く。平原の真中に旅笠を伏せたやうに見える。遠い小山は、耳無《みゝなし》の山である。其右に高くつゝ立つてゐる深緑は畝傍山。更に遠く日を受けてきらつく池は、埴安《はにやす》の水ではないか。其側に平たい背を見せたのは、聞えた香具《かぐ》山なのだらう。旅の女は、山々の姿を辿つてゐる。香具山をあれだと考へた時、あの下が、若い父母の育つた、其から叔父叔母、又一族の人々の行き来したことのある藤原の里なのだ。
もう此上は見えぬと知れて居ても、ひとりでに爪先立てゝ伸び上る気持が出て来る。
香具山の南の裾に輝く瓦舎《かはらや》は、大官大寺《だいくわんだいじ》に違ひない。其から更にまつ直に、山と山との間に薄く霞んでゐるのが、飛鳥の村なのであらう。祖父も祖々父《ひぢゝ》も其父も皆あの辺りで生ひ立つたのだ。
この国の女に生れて、一足も女部屋《をんなべや》を出ないことを美徳として時代に居る身は、親の里も祖先の土も、まだ踏みも知らない。あの陽炎《かげらふ》の立つてゐる平原を、此足で隅から隅まで歩いて見たい。かう彼|女性《によしやう》は思つてゐる。だが其よりも大事なことは、此|郎女《いらつめ》――貴女は、昨日の暮れ方、奈良の家を出て、こゝまで歩いて来てゐるのである。其も唯のひとりであつた。
家を出る時、瞬間心を掠めた――父が案じるだらうと言ふ考へも、もう気にはかゝらなくなつて居る。乳母があわて求めるだらうと言ふ心が起つて来ても、却てほのかなこみあげ笑ひを誘ふ位の事になつてゐる。
山はづつしりとおちつき、野はおだやかに畝つて居る。こゝに居て、何の物思ひがあらう。この貴い娘は、やがて後をふり向いて、山のなぞへについて首をあげて行つた。
二上山。この山を仰ぐ時の言ひ知らぬ胸騒ぎ。藤原飛鳥の里々山々を眺めて覚えた、今の先の心とは、すつかり違つた懐しさ。旅の郎女は、脇目も触らず、山を仰いでゐる。さうして静かな思ひが、満悦に充ちて来るのを覚えた。昔びとは、確実な表現を知らぬ。だが謂はゞ――平野の里に感じた喜びは、過去|生《しやう》に対するものであり、今此山を臨み見ての驚きは未来を思ふ心躍りであつたと謂へよう。
塔はまだ厳重にやらひ[#「やらひ」に傍点]を組んで人の立ち入りを禁《いまし》めてあつた。でも拘泥することを教へられて居ない姫は、何時の間にか塔の一重の欄干によりかゝつて居る自分に気がついた。
さうして、しみ/″\と山に見入つて居る。山と自分とに繋《いまし》つてゐる深い交渉を、又くり返し考へはじめたのである。

郎女の家は、奈良東城の右京二条第七坊にある。祖父武智麻呂の亡くなつて後、父が移り住んでからも、大分の年になる。父は横佩《よこはき》の大将《だいしやう》と謂はれる程、一ふりの大刀のさげ方にも、工夫を凝らさずには居られぬだて[#「だて」に傍点]者《もの》であつた。なみ[#「なみ」に傍点]の人の竪にさげて佩く大刀を横に吊る佩き方を案出した人である。新しい奈良の都の住民は、まだかうした官吏としての豪華な服装を趣向《この》むまでに到つて居ない頃、若い姫の父は、近代の時装に思ひを凝して居た。古い留学生や、新来の帰化僧などを訪問して尋ねることも張文成などの新作の物語などは、問題にはして居なかつた。
さうした濶達なやまとごゝろを赴くまゝに伸して
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