は、童女《わらはめ》として初《はつ》の殿上《でんじやう》をした。穆々《ぼく/\》たる宮の内の明りは、ほのかな香気を含んで流れて居た。昼すら真夜に等しい御帳台《みちやうだい》のあたりにも、尊いみ声は昭々と珠を揺る如く響いた。物わきまへもない筈の八歳の童女は感泣した。
「南家には、惜しい子が、娘となつて生れたことよ」と仰せられたと言ふ畏れ多い風聞が、暫らく貴族たちの間にくり返された。
其後十二年、南家の娘は二十になつてゐる。幼いからの聡《さと》さにかはりはなくて、玉|水精《すゐしやう》の美しさが加つて来たとの噂が年一年と高まつて来る。
姫は大門の閾を越えながら、童女殿上《わらはめでんじやう》の昔の畏《かしこ》さを追想して居た。長いいしき[#「いしき」に傍点]道を踏んで、二の門に届いた時も、誰一人出あふ者がなかつた。恐れを知らず育てられた大貴族の郎女は、虔《つゝま》しく併しのどかに、御堂々々の御仏を礼んで、東塔の岡に来たのであつた。
こゝからは、北の平野は見えない。見えたところで、郎女は奈良の家を考へ浮べることもしなかつたであらう。まして、家人たちが、神隠しに遭つた姫を探しあぐねて居ようなどゝは、思ひもよらなかつたのである。唯うつとりと、塔の下から仰ぎ見る二上山の山肌に、現《うつ》し世《よ》の目からは見えぬ姿を見ようとして居るのであらう。
此時分になつて、寺では、人の動きが繁くなり出した。晨朝の勤めをすまして、うと/\して居た僧たちも、爽やかな朝の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]いて、食堂へ降りて行つた。奴娘《ぬひ》は其に持ち場/\の掃除を励む為に、洗つたやうになつた境内に出て来た。
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そこに御座るのは、どなたやな
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岡の蔭から、恐る/\頭をさし出して問うた一人の婢子《めやつこ》は、あるべからざる事を見た様に、自分自身を咎めるやうな声をかけた。女の身として、此岡へ上る事は出来なかつたのである。姫は答へようとせなかつた。又答へようとしても、かう言ふ時に使ふ語には馴れて居ない人であつた。若し又、適当な語を知つて居たにしたところで、今は、そんな事に考へを紊されてはならない時だつたのである。
姫は唯、山を見てゐる。山の底にある俤を観じ入つてゐるのである。
娘奴《めやつこ》は二|言《こと》と問ひかけなかつた。一晩のさすらひ
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