さのおも》の計ひで、長老《おとな》は渋々、奈良へ向いて出かけた。
翌くる日、彩色の届けられた時、姫の声ははなやいで、昂奮《はやり》かに響いた。
女たちの噂した袈裟で謂へば、五十条の袈裟とも言ふべき、藕絲《ぐうし》の錦の上に、郎女の目はぢつと据つて居た。やがて、筆は愉しげにとり上げられた。線描《すみが》きなしに、うちつけに彩色《ゑのぐ》を塗り進めた。美しい彩画《たみゑ》は、七色八色の虹のやうに、郎女の目の前に輝き増して行く。
姫は、緑青を盛つて、層々うち重る楼閣伽藍の屋根を表した。数多い柱や廊の立ち続く姿が、目赫《めかゝや》くばかり朱で彩《た》みあげられた。むら/\と、靉くものは紺青《こんじやう》の雲である。紫雲は一筋長くたなびいて、中央根本堂とも見える屋の前に画《か》きおろされた。雲の上には、金泥《こんでい》の光り輝く靄が、漂ひはじめた。姫の命を失ふまでの念力が、筆のまゝに動いて居る。やがて、金色《こんじき》の気は、次第に凝り成して、照り充ちた色《しき》身――現《うつ》し世の人とも見えぬ尊い姿が顕れた。
郎女は唯、先《さき》の日見た、万法蔵院の夕《ゆふべ》の幻を筆に追うて居たばかりである。堂・塔・伽藍すべては、当麻のみ寺のありの姿であつた。だが、彩画《たみゑ》の上に湧き上つた宮殿《くうでん》楼閣は、兜率天宮《とうそつてんぐう》のたゝずまひさながらであつた。併しながら四十九重《しじふくぢう》の宝宮の内院《ないゐん》に現れた尊者の相好《さうがう》は、あの夕、近々と目に見た俤びとの姿を、心に覓《と》めて描き現したばかりであつた。
刀自若人たちは、一刻二刻時の移るのも知らず、身ゆるぎもせずに、姫の前に開かれて来る光りの霞を、唯見呆けて居るばかりであつた。
郎女が、筆を措いて、にこやかな笑《ゑま》ひを蹲踞するこの人々の背にかけ乍ら、のどかに併し、音もなく、山田の廬堂を立ち去つたのに、心づく者は一人もなかつたのである。
姫の俤びとの衣に描いた絵様《ゑやう》は、そのまゝ曼陀羅の形を具へて居たにしても、姫はその中に、唯一人の色身の幻を画いたに過ぎなかつた。併し、残された刀自若人たちがうち瞻る画面には、見る/\、数千|地涌《ぢゆ》の菩薩の姿が浮き出て来た。其は、幾人の人々が同時に見た、白日夢のたぐひかも知れない。
底本:「初稿・死者の書」国書刊行会
2004(平成16)
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