様の心躍りを、一月も前から感じて居た。さうして日を数《と》り初めて、ちようど今日と言ふ日。彼岸中日、春分の空が朝から晴れて、雲雀は天に翔り過ぎて帰らないほど、青雲が深々とたなびいて居た。郎女は、九百九十九部を写し果して、千部目にとりついて居た。日一日、のどかな温い春であつた。経巻の最後の行、最後の字を書きあげて、ほつと息をついた。あたりは俄かに、薄暗くなつて居る。目をあげて見る蔀窓の外には、雨がしと/\と落ちて居るではないか。姫は立つて手づから簾をあげて見た。雨。
苑の青菜が濡れ、土が黒ずみ、やがては瓦屋にも音が立つて来た。
姫は立つても坐《すわ》ても居られぬ焦燥に煩えた。併し日は益々暗くなり、夕暮れに次いで、夜が来た。
茫然として、姫はすわつて居る。人声も、雨音も、荒れ模様に加つて来た風の響きも、もう姫は聞かなかつた。
二
南家の郎女が神隠《かみかく》しに遭つたのは、其夜であつた。家人は、翌朝空が霽れ、山々がなごりなく見えわたる時まで、気がつかなかつたのである。横佩墻内《よこはきかきつ》に住む者は、男も女も、上《うは》の空になつて、京中京外を馳せ求めた。さうした奔《はし》り人《びと》の多く見出される場処と場処とは、残りなく捜された。春日山の奥へ入つたものは、伊賀境までも踏み込んだ。高円山の墓原も佐紀山の雑木原も、又は、南は山村《やまむら》、北は奈良山。馳せ廻つて還る者も/\、皆|空《から》足を踏んで来た。
姫は何処をどう歩いたか、覚えがない。唯、家を出て西へ/\と辿つて来た。降り暮るあらしが、姫の衣を濡した。姫は誰にも教はらないで、裾を脛《はぎ》まであげた。風は姫の髪を吹き乱した。姫は、髻《もとゞり》をとり束ねて、襟から着物の中に、くゝり入れた。夜中になつて雨風が止み、星空が出た。姫の行くてに、二つの峰の並んだ山の立ち姿がはつきりと立つて居た。毛孔の竪つやうな畏しい声を、度々聞いた。ある時は、鳥の音であつた。其後、頻りなく断続したのは、山の獣の叫び声であつた。大和の内も、都に遠い広瀬旧城あたりには、人居などは、ほんの忘れ残りのやうに、山蔭などにあるだけで、あとは曠野と、本村《ほんむら》を遠く離れた田居《たゐ》ばかりである。
片破れ月が出て来た。其が却てあるいてゐる道の辺の凄さを照し出した。其でも、星明りで辿つて居るよりは、よるべを生じて、足が先
前へ
次へ
全74ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング