が、宮から召されることになるだらうと言ふ噂が、京・洛外に拡つたのも、其頃である。屋敷中の人々は、身近く事《つか》へる人たちから、垣内《かきつ》の隅に住む奴隷《やつこ》・婢奴《めやつこ》の末にまで、顔を輝して、此とり沙汰を迎へた。
でも、姫には、誰一人其を聞かせる者がなかつた。其ほど、此頃の姫は気むづかしく、外目《よそめ》に見えてゐるのである。
千部手写の望みは、さうした大願から立てられたものだらうと言ふ者もあつた。そして誰も、其を否む者はなかつた。
南家の姫の美しい膚は益透きとほり、潤んだ目は、愈大きく黒々と見えた。さうして、時々声に出して誦《じゆ》する経文が、物の音《ね》に譬へやうもなく、さやかに人の耳に響いた。聞く人自身の耳を疑ふばかりだつた。
去年の春分の日の事であつた。入り日の光りをまともに受けて、姫は正座して、西に向つて居た。日は此屋敷からは、稍|坤《ひつじさる》によつた山の端に沈むのである。西空の棚雲の紫に輝く上で、落日は俄かに転《くるめ》き出した。その速さ。雲は炎になつた。日は黄金《わうごん》の丸《まるがせ》になつて、その音も聞えるかと思ふほど鋭く廻つた。雲の底から立ち昇る青い光りの風――、姫は、ぢつと見つめて居た。やがて、すべての光りは薄れて、雲は霽れた。夕闇の上に、目を疑ふほど鮮やかに見えた山の姿。二上山である。その二つの峰の間に、あり/\と荘厳な人の俤が、瞬間顕れて消えた。後は真暗な闇の空である。山の端も、雲も何もない方に、目を凝《こら》して、姫は何時までも端座して居た。
姫の心は、其時から愈澄んだ。併し、極めて寂しくなり勝《まさ》つて行くばかりである。
ゆくりない日が、半年の後に再来て、姫の心を無上《むしやう》の歓喜に引き立てた。其は秋彼岸の中日、秋分の夕方であつた。姫は曾ての春の日のやうに坐してゐた。朝から、姫の白い額は、故もなくひよめいた[#「ひよめいた」に傍点]。長い日の後である。二上山の峰を包む雲の上に、中秋の日の爛熟した光りが、くるめき出したのである。雲は火となり、日はまるがせとなり、青い響きの吹雪を吹き捲く風。
雲がきれ、光りのしづまつた山の端は、細く金の外輪を靡かして居た。其時峰の間に、あり/\と浮き出た髪、頭、肩、胸――。
姫は又、あの俤を見ることを得たのである。南家の郎女の幸福な噂が、春風に乗つて来たのは、次の春である。姫は別
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