、その女性自身の作と伝えながら、実は語部の叙事詩それ自身が、生み出した性格でもあり、作物でもあった。つまりは物語や、それから游離した歌謡の上にのみ、情知り訣《わけ》知りらしく伝わったので、後世から憧れるほどのものでなかったのである。ただ、ことの神事に関する限り、著しく女性としての権威を顕し、社会的にも活動したのは事実である。神の意思を宣伝し、神の力を負うて号令する巫女の勢力が、極度に発揮せられるのである。
 近江・藤原の宮のころから禁じられだしたが、なお、その行きわたらなかった地方には、存していたろうと思われるのは、女子の従軍である。昔から学者は軍旅の慰めに、家妻を伴うたものと解している。もっとも、この法令の出たころは、女と戦争との交渉について、記憶が薄らいでいたものであろう。戦争における巫女の位置というようなことを考えると、巫女にして豪族の妻なる者の従軍は、巫女であるがためといふ中心点より、妻なるがためという方へ、移っていっていたのである。
 日本武尊《やまとたけるのみこと》の軍におられた橘媛《たちばなひめ》などは、妻としての従軍と考えられなくもない。崇神天皇の時に叛《そむ》いた建埴安彦《タケハニヤスヒコ》の妻|安田《アダ》媛は、夫を助けて、一方の軍勢を指揮した。名高い上毛野形名《かみつけぬのかたな》の妻も、その働きぶりを見ると、単に「堀川夜討」の際の静御前と一つには見られない、やはり女軍の将であったらしい。調伊企儺《ツキノイキナ》の妻|大葉子《オホバコ》も神憑りする女として、部将として従軍して、俘《とりこ》になったものと考えられる。神功皇后などは明らかに、高級巫女なるがゆえに、君主とも、総大将ともなられたのである。
 女が軍隊に号令するのに、二つの形がある。全軍の将としての場合と、一部隊の頭目としての時とがそれである。巫女にして君主といった場合は、もちろん前の場合であろうが、軍将の妻なる巫女の場合には、後の形をとったことと思われる。
 神武天皇の大和の宇陀《うだ》を伐《う》たれた際には、敵の兄磯城《エシキ》・弟磯城《オトシキ》の側にも、天皇の方にも、男軍《ヲイクサ》・女軍《メイクサ》が編成せられていた。「いくさ」という語の古い用語例は軍人・軍隊という意である。軍勢に硬軟の区別を立てて、軍備えをするわけもないから、優形《やさがた》の軍隊といったふうの譬喩表現と見る
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