嫁」として、神にできるだけ接近してゆくのが、この人々の為事《しごと》であるのだから、処女は神も好むものと見るのは、当然である。斎女王も、処女を原則としたが、なかには寡婦を用いたこともある。
しかし、このいま一つ前の形はどうであろう。村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。魏志倭人伝の邪馬台《ヤマト》国の君主|卑弥呼《ヒミコ》は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功《じんぐう》皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、日本紀を見れば知られることである。万葉人の時代でも、女帝にはことに、宗教的色彩が濃いようである。喜田博士が発見せられた女帝を中天皇《ナカツスメラミコト》(万葉には中皇命)と言うのも、博士の解説のように男帝への中継ぎの天子という意でなく、宮廷神と天子との中間に立つ一種のすめらみこと[#「すめらみこと」に傍線]の意味らしくある。古事記・日本紀には天子の性別についても、古いところでは判然せない点がある。そういうところは、すべて男性と考えやすいのであるが、中天皇の原形なる女帝がなお多くあらせられたのではあるまいか。
沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王同様の為事をして、聞得大君《キコエウフキミ》(ちふいぢん)と言うた。尚《しょう》家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下に当るのろ[#「のろ」に傍線](祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神に事《つか》える女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴《ほうふつ》させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。
三 女軍
万葉および万葉以前の女性とさえ言えば、すぐれて早く恋を知り、口迅《くちど》に秀歌を詠んだもののように考えられてきている。しかしこれとてもやはり、伝説化せられたものに過ぎなかったのである。佳人才女の事蹟を伝えたのは
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