ろう。が、こうした結婚法は、どこまでが実生活の俤《おもかげ》で、どこからが神話化せられているのか、区別がつきにくい。
ただ、この形のいま一つ古い形と見られるのは、女の家に通うという手ぬるい方法でなく、よその娘を盗んでくる結婚の形である。
外族の村どうしの結婚の末、始終円満に行かず、何人か子を産んで後、ついに出されて戻った妻もあった。そうなると、子は父の手に残り、母は異郷にあるわけである。子から見れば、そうした母のいる外族の村は、言おう様なく懐しかったであろう。夢のような憧れをよせた国の俤は、だんだん空想せられていった。結婚法が変った世になっても、この空想だけは残っていて「妣《ハヽ》が国」という語が、古代日本人の頭に深く印象した。妣は祀られた母という義である。また古伝説にも、死んだ妣の居る国というふうに扱うているが、この語を使った名高い僅かな話が、亡き母に関聯しているためであろう。この語は以前私も、日本人大部分の移住以前の故土を、譬喩的に母なる国土としたのだと考えていたが、そうではない。全然空想の衣を着せられて後は、恋しい母の死んで行っている所というふうに考えられたであろうが、意義よりも語の方が古いのである。こういった結婚法がやはりだんだんと見えている。
奪掠婚《だつりゃくこん》というが、これは近世ばかりか、今も、その形式は内地にも残っている。ただ古代の奪掠法とも見える結婚の記録も、巫女生活の記念という側から見ると、そう一概にも定められぬところがある。景行天皇に隙見せられた美濃ノ国|泳《クヽリ》[#(ノ)]宮《ミヤ》[#(ノ)]弟媛《おとひめ》(景行紀)は、天子に迎えられたけれども、隠れてしもうて出て来ない。姉|八坂入媛《ヤサカイリヒメ》をよこして言うには「私はとつぎ[#「とつぎ」に傍線]の道を知りませんから」というのである。
おなじ天皇が、日本武尊らの母|印南大郎女《イナミオホイラツメ》(播磨風土記)の許《もと》に行かれた際、大郎女は逃げて逃げて、加古川の川口の印南都麻《イナミツマ》という島に上られた。ところが川岸に残した愛犬が、その島に向いて吠えたので、そこに居ることが知れて、天子が出向いて連れ戻られた。印南の地名は、隠れる・ひっこもるなどの意の「いなむ」という語の名詞形から出たのだといふ。島の名も、かくれ妻という意だとある。「いなみづま」言いかへれば、逃
前へ
次へ
全11ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング