婚ということになる。奪掠婚に対して、逃走婚という方法を考えに入れねば、奪掠の真意義もわかりにくかろうと思う。
 地方豪族の娘は、その土地の神の巫女たる者が多い。ことに神に関したことのみ語る物語の性質から見ても、これらの処女が、巫女であったことは察せられる。巫女なるがゆえに、人間の男との結婚に、これまでの神との仲らいを喜んで棄てるように見えては、神にすまなくもあり、その怒りが恐ろしいのである。それで形式としても、逃走婚の姿をとらなければならなかった。また真実、従来の生活と別れることの愛着の上から言っても、自然にもそうなったであろう。弟媛《オトヒメ》のごときはその例で、原則としての巫女の処女生活を守り貫《ぬ》いたわけである。大郎女《オホイラツメ》の方は、あんなに逃げておきながらと思われるほど、つかまったとなると、きわめて従順であったようである。
 これも沖縄の民間伝承がこの説明に役立つ。首里市から陸上一里半海上一里半の東方にある久高《くだか》島では、島の女のすべてが、一生涯の半《なかば》は、神人として神祭りに与かる。大正の初めに島中の申し合せで自今廃止ということになって、若い男たちがほっとした結婚法がある。
 婚礼の当夜、盃事がすむと同時に、花嫁は家を遁《に》げ出て、森や神山(御嶽《オタケ》と言う)や岩窟などに匿《かく》れて、夜は姿も見せない。昼は公然と村に来て、嫁入り先の家の水壺を満たすために、井《カア》の水を頭に載せて搬《はこ》んだりする。男は友だちを談《カタラ》うて、花嫁のありかをつきとめるために、顔色も青くなるまで尋ね廻る。もし、三日や四日で見つかると、前々から申し合せてあったものと見て、二人の間がらは、島人全体から疑われることになる。もちろん爪弾《つまはじ》きをするのだ。長く隠れおおせたほど、結構な結婚と見なされる。「内間《ウチマ》まか」と言い、職名|外間祝女《ホカマノロ》と言われている人などは、今年七十七八であるが、嫁入りの当時に、七十幾日隠れとおしたというが、これが頂上だそうである。夜、聟が嫁を捉えたとなると、髪束をひっつかんだり、随分手荒なことをして連れ戻る。女もできるだけの大声をあげて号泣する。それで村中の人が、どこそこの嫁とりも、とうとう落着したと知ることになるのである。
 こうした花嫁の心持ちは、微妙なものであろうから、単に形式一遍に泣くとも見られ
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