詞に関係せなくなる。さうなると、此為事に与る神人の資格は、段々下の方に向いて行くであらう。其上、当時まだ、村の君など言ふ頭分を考へなかつた時代の記憶を止めて居た地方では、成年式を経た若者たちが「一時《イツトキ》神主」として、神にも扮し、呪言をも唱へた。其が沖縄ばかりか、大正の今日の内地にすら残つて居るのである。さう言ふ風に若者中、神人・神主と、色々に呪言を誦する人々がある上に、突如として宗教的自覚を発する徒などがあつて、呪言を取扱ふ人々は、必多様であつたに違ひない。
村々の家々と其生産とを予祝する寿詞は、若者か、下級の神人の為事になつて行く傾きのある事は考へられる。村々の宗教が、段々神社制度に飜訳せられて行くと、社に関係の薄い者から落伍しはじめて来る。ほかひ[#「ほかひ」に傍線]は元、神社制度以前のもので、以後も、神社との交渉は尠かつた。其に与る神人も、正しい神職でなかつたりする為に、漸く軽く見られる傾きが出て来た。宮廷では、中臣・忌部の神主が共に呪言を奏するのに、中臣は神社制度に伴ふ側に進み、忌部は旧慣どほりほかひ[#「ほかひ」に傍線]を主とした点からも、前者にけおとされねばならぬ事になつたのである。
社々にだつて、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]側の為事はない訣ではない。而も祓へ・占ひ・まじなひ[#「まじなひ」に傍線]などの外は、よごと[#「よごと」に傍線]の語義に関係の深い「祈年《トシゴヒ》呪言(穀言)」・「長寿呪言(齢言)」すら、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]の範囲から逸れて了ふ事になつた。
神社の有無が、神の資格定めの唯一の条件になつて来ると、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]の対象なる精霊は、位づけが明らかに下つて来る。さうなると、寿詞の価値も自ら低くなつて、高い意味の寿詞並びに、醇化した神の為の新しい呪言が、のりと[#「のりと」に傍線]の名を以て、其にとつて替る事になつたのである。
既に地位の下りかけて居た祝言が、更に分化して一種の職業となつたほかひ[#「ほかひ」に傍線]の徒のはじまりは、どう言ふ種類の人々であつたであらう。一時神主《イツトキカンヌシ》として、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]に習熟した村の若者出の人々や、後楯なる豪族に離れた村々の神人の、亡命或は零落した者が、占ひ・祓へ・まじなひ[#「まじなひ」に傍線]と共に、祝言をのべて廻つたのが、此が職業化した古い姿と思はれる。
村と村との睨みあふ心持ちは、まだ抜け切らぬ世の中でも、此旅人はわりに安心であつたであらう。異郷の神は畏れられも、尊ばれもした。霊威やゝ鈍つた在来の神の上に、溌溂たる新来《イマキ》の神が、福か禍かの二つどりを、迫つて来る場合が多かつた。異郷から新来の客神を持つて来る神人は、呪ひの力をも示した。よごと[#「よごと」に傍線]を唱へると同時に、齢[#「齢」に白丸傍点](よ)と穀[#「穀」に白丸傍点](よ)とを荒す、疫病・稲虫を使ふ事も出来た。駿河ではやつた常世《トコヨ》神(継体紀)、九州から東漸した八幡の信仰の模様は、新神の威力が、如何に人々の心を動したかを見せて居る。ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の、異郷を経めぐつて、生計を立てゝ行く事の出来たのも、此点を考へに入れないでは、納得がいかない。
村々を巡遊して居る間に、彼等は言語伝承を撒いて歩いた。右に述べた様な威力を背負つて居た事を思へば、其為事が、案外、大きな成績をあげた事が察せられるのである。
其外に、神奴も、此第一歩の運動には、与つて居さうに思はれる。併し、奴隷階級の者がどうして自由に巡遊する事が出来たか、此点の説明が出来さうもない。だから、此は今|姑《しば》らく預つて、考へて見たいと思ふ。
六 叙事詩の撒布
ほかひ[#「ほかひ」に傍線]が部曲として、語部の様に独立して居なかつた事は、巡遊伶人としての為事に、雑多な方面を含む様になつた原因と見る事が出来る。
乞食者詠を見ても知れる様に、寿詞《ヨゴト》の様式の上に、劇的な構造や、抒情的な発想の加つて来たのは、語部の物語の影響に外ならぬのである。私は保護者を失うた神人の中に、村々の語部をも含めて考へて居る。其上ほかひ[#「ほかひ」に傍線](祝言)が神人としての専門的な為事でないとすれば、語部にしてほかひ[#「ほかひ」に傍線]、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]にして「物語」をある程度まで諳じて居ると言つた事情の者もあつたであらう。元々、神に対してまる/\の素人でない者の事である。語部の叙事詩を、唱へ言の中にとり入れて、変つた形を生み出す様になつたのも、謂はれのない事ではない。
単にとり込んだばかりでなく、本義どほりにはほかひ[#「ほかひ」に傍線]とは縁遠い叙事詩を、其儘に語る様なことも、語部がほかひ[#「ほかひ」に傍線]の徒の中にまじつたとすれば、あるべき事である。事実又、其痕跡は段々述べて行くが、確かに残つてゐる。
わりに完全な物語と、物語の断篇とが、或村から離れて他の所へ持廻られる。すると、其処に起るのは、物語の交換と、撒布とである。更に見逃されないのは、文学的な衝動を一度も起さなかつた人々の心の上に、新しい刺戟が生じたことである。記・紀・万葉・風土記の上に、一つの伝説の分岐したものや、数種の説話の上に類型の見つかる事が、沢山にある。此を単純に解決して、同じ民間伝承を飜訳した神話・伝説が、似よりを見せるのは当然だとばかりは、考へられなくなつた。尠くとも、奈良朝以前から既に、巡遊伶人があつた事情から見ても、一層強い原動力を此処に考へないのは、嘘である。
叙事詩の撒布
一 うかれびと
語部《カタリベ》の生活を話す前に寿詞《ヨゴト》の末、語部の物語との交渉の深まつて来た時代のほかひ[#「ほかひ」に傍線]の様子を述べなければならなくなつた。此については、既に書いた概説とも言ふべきものによつて、一つの予備をつくつて頂けて居る事と思ふから、後前御免を願うて、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]が叙事詩化して行つた経路を辿り続ける事とする。日本の遊女の発生と、其固定に到る筋道は、柳田国男先生の意見が、先達の考案の蔑にしてよいものゝ多い、わが学界にとつては、後にも先にもない卓論であり、鉄案でもある。先生は微細な点までもじぷしい[#「じぷしい」に傍線]と殆ど同一の生活をして居た我が古代の浮浪民(うかれびと)なる傀儡子(くゞつ)と、其女性なる遊行女婦(うかれめ)との実在を証拠だてられた(明治四十一年頃の人類学雑誌に連載)。先住民の落ちこぼれで、生活の基調を異神の信仰に置いた其団体が、週期を以て、各地を訪れ渡つて居る中に、駅・津の発達と共に、陸路・海路の喉頸《ノドクビ》の地に定住する事になつた。女性の為事なる芸能(歌舞と偶人劇)と売色を表商売とする様になつて、宿々の長又は長者と言ふ事になつたと言はれて居る。私は、此同化せなかつた民族の後なるうかれびと[#「うかれびと」に傍線]の外に、自ら跳ね出して無籍者になつた亡命の民がまじつて居さうに考へる。つまり其がほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]である事は、前に述べた積りである。
神人が大檀那なる豪族の保護を失ふ理由には、内容がこみ入つて居る。神を守つた村君が亡びた事、そして村君の信仰の内容が易《かは》つた事。此にも、内わけが三つ程に考へられる。倭本村の神をとり入れるか、飜訳して垂跡風にした類(一)。弱い村・亡びた村の出《デ》であつても、新来神《イマキガミ》として畏敬せられた類(二)。同じ類にあげる事も出来る所の、道教の色あひを多分に持つた仏教(三)。此信仰の替り目に順応する事の出来なかつた地方では、段々「神々の死」がはじまつて来た。さうした神々のむくろ[#「むくろ」に傍線]を護りながら、他郷に対しては、一つの新神があると言ふ威力を利用して、本貫を脱け出す者が、後から/\と出た。従うて其信仰様式は、古くもあり、又本意を失うた固定をする事にもなつた。うかれ人[#「うかれ人」に傍線]の祀つた神が、平安中期以後の人々の目には、不思議な姿に映つたのも、一つは此為である。人形の事は、今までに発言の機会を逸して来たが、倭本村に深い関係を交錯してゐる村々の中で、古くから神の形代《カタシロ》なる人形を持つたものが、段々ある。倭の村にだつてなかつたとはきめられぬ。臨時に出来る神の形代が、段々意義を失うて、人の形代が多くなつて来る時代には、常住専ら偶人を斎《いつ》く団体の信仰が異端視せられるに不思議はない。
倭本村から一目置かれて居た大村の神と神人とは、次第に倭化はしながらも、幸福な推移をして行つたであらう。が、村君と血統上の関係を結びつけて考へるに到らなかつた神を祀つた村では、村君は郡領として尚《なほ》勢力を失はずに居ても神と神人とは不遇な目を見た。政教をひき裂く大化の政の実効のまづ挙つたのは、此種の村々であらう。而も何かの理由で、国造と関係のない者がとつて替つて郡領となつたり、さうでなくても中央から来た国司が、地方の事情を顧みないで事をする場合には、本貫に居る事が、積極的に苦しみの元であつた。日向の都野《ツヌ》神社の神奴は、国守の私から、国司の奴隷とせられた。神の憤りは、国司に禍を降す代りに、神奴の種を絶されるに到つた(日向風土記逸文)。此は国造の神が、郡領に力はあつても、倭から置かれた官吏には無力であつた事の、悲しい証拠である。と同時に、恐らく下級神人の二重奴隷と言ふ浮む瀬のない境涯に落ちた事を見せて居るのであらう。村々の神人にして、新しく這入つて来た倭の神の神奴にせられた者、神々の階級が下つた処から、神人の神奴の様にとり扱はれた者もあらう。本貫を離れない事の苦しみは、まだ此ばかりではなかつた。
村々の部曲の中で、保護者を失つても、自活の出来るのは、主として手職をうけ襲《つ》いだ家である。其以外の者のみじめさは、察しるに十分だ。時勢と保護とから第一にふり落されるのは、神人階級の部曲である。
亡命を、一二人又は一家の上にばかりある事と考へるのは、近世の事情に馴れ過ぎたのだ。戦国以前までは、尠くとも新知を開発する為に、と言ふ名で、沢山の家族団体を引き連れて数百里離れた地へ、本貫を棄てゝ移つた家々は、数へきれない。信仰の代りに、武力を携へて歩いたうかれびと[#「うかれびと」に傍線]に過ぎないのである。此新うかれびと[#「うかれびと」に傍線]は庸兵軍として、道々の豪族に手を貸しもした。運よく行つたのは大名となり、あまり伸びなかつた者は、豪族の下に客人格の御家人となり、又非御家人・郷士と窄まつて了うたりした。我国の戸籍の歴史の上で、今一度考へ直さねばならぬのは、団体亡命に関する件である。住みよい処を求める旅から、終には旅其事に生活の方便が開けて来て、巡遊が一つの生活様式となつて了ふ。彼等の持つて居る信仰が力を失うても、更に芸能が時代の興味から逸れない間、彼等の職業が一分化を遂げきる迄の間は、流民として漂《ウカ》れ歩いたのである。
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近世芸術は、殆ど柄傘《カラカサ》の下から発達したと言うてもよい位、音曲・演劇・舞踊に大事の役目をして居る。売女に翳《かざ》しかけた物も、僣上して貴人や、支那の風俗をまねたものではあるまい。足柄山で上総前司の一行に芸能を見せたうかれ女[#「うかれ女」に傍線]は、大傘を立てた下に座を構へた(更級日記)。大鏡に見えた「田舞」も、田の中に竪てた傘を中心にした様である。此二つは、平安朝末のやゝ古い処である。其以後は、田楽を著しいものとして、民衆芸能に傘の出て来ないものは尠かつたと言ふ事も出来よう。傘の下は、神事に預る主な者の居る場所である。大陸風渡来以前から倭宮廷にあつた風で、神聖感を表現もし、保護もしたものなのである。うかれ女[#「うかれ女」に傍線]系統の楽器らしい簓《サヽラ》と言ふ物も、形は後世可なり変化したであらうが、実は万葉人の時代からあつたものと言ふ推測がついて居る。此等の事は、力強い証拠とは出来ぬかも知れぬが、異風と見られる点も、実は定住人とさしたる違ひの
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