つた。彼等は、土地を離れない生活を営む様になつてゐた。副業も活計を支へる事の出来る程、世間から認められて来た。此点が稍《やや》違ふのであるが、田楽・猿楽の役者たちが、屡檀那なる豪族の辺土の領地を巡遊した事から見ても、全くの土着の農民と一つに見る訣には行かぬ。
ものよし[#「ものよし」に傍線]は早く社との関係を失ひ、宮廷の千秋万歳も、唱門師と手をとりあふ様になると、地方の大小名の家の子のする年頭の祝言は、ある家筋の侍には限らなくなつたであらう。祝言にも、愈《いよいよ》職業化したものと、職業意識を失うたものとが出来た訣だ。
ものよし[#「ものよし」に傍線]と万歳とは、民間と宮廷との違うた呼び名から、二つに見える様になつたが、実は元一つである。地方のものよし[#「ものよし」に傍線]がすべて宮廷式・都会風の名に改まつて行つて、明治大正の国語の辞典には「癩病の異名。方言」として載せられる位に忘れられた。
語《ことば》から見ても、ものよし[#「ものよし」に傍線]の方が「千秋万歳」を文句の尻にくり返したらしい後者よりは、古い称へであつたであらう。此ものよし[#「ものよし」に傍線]が直ちに、意義分化以前のほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の続きだとは、速断しかねるが、大体時代は、略《ほぼ》接して居るものと言へる様である。日なみ月なみ数へ[#「日なみ月なみ数へ」に傍線]・勧農・祝言、様々の神人がゝつた為事が、順ぐりに形を変へて、次の姿になつたと見るよりは、一つの種が、時代と地方とで、色々な形と、色々な色彩とを持つて、後から/\出たものと見る事も出来よう。でも、其は却つて論理を複雑にするものであるから、直系・傍系と言ふ点の考へに重きを置くことをやめて、事実を見る外はあるまい。

     二 「乞食者詠」の一つの註釈

万葉巻十六は、叙事詩のくづれと見えるものを多く蒐《あつ》めて居る。其中、殊に異風なのは、「乞食者詠」とある二首の長歌である。此を、必しもほかひゞとのうた[#「ほかひゞとのうた」に傍線]と訓まなくとも、当時の乞食者の概念と、其生活とは窺はれる。土地についた生業を営まず、旅に口もらふと言ふ点から、人に養はれる者と言ふ侮蔑を含んで居る。決して、近世の無産の浮浪人をさすのではない。而も、巡遊伶人であることは、確かである。
平安の中頃には、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]が乞食と離れぬ様になつてゐるのだから、仮りにこゝを足場として、推論を進めて行つて見る事も出来よう。ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]は寿詞を唱へて室《ムロ》や殿のほかひ[#「ほかひ」に傍線]などした神事の職業化し、内容が分化し、芸道化したものを持つて廻つた。最《もつとも》古い旅芸人、門づけ芸者であると言ふ事は、語原から推して、誤りない想像と思ふ。
さうすれば、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の持つて歩いた詞曲は、創作物であるかと言ふ疑ひが起る。寿詞が次第に壊れて、外の要素をとり込み、段々叙事詩化して行つて、人の目や耳を娯《たのし》ませる真意義の工夫が、自然の間に変化を急にしたであらう。此までの学者の信じなかつた事で、演劇史の上に是非加へなければならぬのは人形のあつた事である。其に、叙事詩にあはせて舞ふ舞踊のあつた事である。此事は後に言ふ機会がある。
此歌は、其内容から見ても、身ぶり[#「身ぶり」に傍線]が伴うて居てこそ、意義があると思はれる部分が多い。「鹿の歌」は、鹿がお辞儀する様な頸の上げ下げ、跳ね廻る軽々しい動作を演じる様に出来て居る。「蟹の歌」も、其横這ひする姿や、泡を吐き、目を動すと言つた挙動が、目に浮ぶ様に出来て居る。其身ぶり[#「身ぶり」に傍線]を人がしたか、人形で示したかは訣らない。舞踊の古代の人に喜ばれた点は、身ぶり[#「身ぶり」に傍線]が主なものである。事実、其痕は十分見えて居る。此が神事の演劇と複雑に結びついて、物まね[#「物まね」に傍線]で人を笑はせようと言ふ方へ、益《ますます》傾いて行つた。猿楽も、歌舞妓芝居も、其名自身、人間の醜態や、見馴れた動物の異様な動作の物まね[#「物まね」に傍線]・身ぶり[#「身ぶり」に傍線]であることを見せて居る。
想像が許されゝば、私は此歌にかう註釈したい。鹿は山地、蟹は水辺の農村にとつて、恐しい敵である。鹿は勿論、蟹に喰はれ、爪きられて、稲の荒される事は、祖先以来経て来た苦い経験である。農作予祝の穀言《ヨゴト》が、風や水に関係した文句を持つて居たらうと思はれる事は、後に出来た祝詞から想像がつく。併し、動物の害事を言うては居ない。けれども、宮廷から国々の社に伝達せられた祝詞の外に、社に伝来した土地の事情に適切な呪言があつた事は疑ひもない。鳥獣や虫類を脅かして、退散させようとする呪言もあつた事と思ふ。
ほかひ[#「ほかひ」に傍線]の様式が分化して芸道化しかけた時、其等の動物を苦しめる風の文句が強く表され、動作にも其を演じて見せる様になり、更に其が降服して、人間の為に身を捧げる事を光栄とすると言つた表現を、詞にも、身ぶり[#「身ぶり」に傍線]にも出して来るとすると、此歌の出来た元の意義は納得出来る。此歌の形式側の話は、後にしたい。

     三 当てぶりの舞

呪言の効果を強める為に、呪言を唱へる間に、精霊をかぶれさせ、或はおどす様な動作をする。田楽・猿楽にすら、とつぎ[#「とつぎ」に傍線]の様を実演した俤は残つて居る。此は精霊がかまけて、生産の豊かになる事を思ふのである。精霊をいぢめ懲す様も行はれたに違ひない。此が身ぶり[#「身ぶり」に傍線]の、神事に深い関係を持つ様になる一つの理由である。而も、神事の傾向として、祭式を舞踊化し、演劇化する所から、身ぶり舞[#「身ぶり舞」に傍線]をつくり上げたのである。
隼人のわざをぎ[#「わざをぎ」に傍線]は、叙事詩の起原説明には、単に説明に過ぎなからうが、舞踊化の程度の尠いものと察せられる、水に溺れる人の身ぶり[#「身ぶり」に傍線]・物まね[#「物まね」に傍線]である。
殊舞(たつゝまひ)は起ちつ居つして舞ふからの名だ、と言ふ事になつて居るが、王朝以後|屡《しばしば》民間に行はれた「侏儒舞《ヒキウドマヒ》」の古いものを、字格を書き違へて伝へ、たつゝ[#「たつゝ」に傍線]なる古語を名として居た為に、訣らなくなつたのであらう。此舞を舞うたのは弘計[#(ノ)]王で、度々言うて来た縮見《シヾミ》の室ほぎ[#「室ほぎ」に傍線]の時であつたのも、家の精霊を小人と考へて居た平安朝頃の観念を、溯らして見る事が出来れば、説明はうまくつく。
鳥名子《トナゴ》舞は、伊勢神宮で久しい伝統を称してゐるものである。普通ひよ/\舞[#「ひよ/\舞」に傍線]と言うた上に、鶏の雛の姿を模する舞だと言ふから、やはりあの跛の走る様なからだつき[#「からだつき」に傍線]の身ぶりなのだ。
鹿や蟹のをこ[#「をこ」に傍点]めいた動作をまねる人か人形かの身ぶりが、寿詞系統のほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の謡について居なかつたとは言はれないのである。

     四 ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の遺物

ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の後世に残したものは、由緒ある名称と、門づけ芸道との外に、其名を負うた道具であつた。延喜式などに見える外居《ホカヰ》・外居案《ホカヰヅクヱ》など言ふ器は、行器(ほかひ)と一つ物だと言はれて居る。其脚が外様に向いて猫足風になつて四本ある処から出たものと思はれて来た。かなり大きなもので、唐櫃めいた風らしく考へられる。其|稍《やや》小さくて、縁《フチ》があつて、盛り物でもするらしい机代りの品を、「外居案《ホカヰヅクヱ》」と言ふらしい。「ひ」と「ゐ」とは、音韻に相違はあつても、此時代はまだ此二音の音価が定まらないで、転化の自由であつた時なのだから、仮字の違ひは、物の相違を意味せないのである。
だが、稍遅れた時代の民間のほかひ[#「ほかひ」に傍線]は、其程大きな物ではない。形も大分変つて来てゐる様である。絵巻物によく出て来る此器は、形はずつと小さくて、旅行や遠出に、一人で持ち搬びの出来る物である。
私は、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の常用した此器を便利がつて、大小に拘らず其形を似せて、一般に用ゐ出したのだと思ふ。今一歩推論してもよければ、頭上・頸・肩に載せたり、掛けたり、担いだりして、出来る限りの物を持つて出かけるのが、昔の人の旅行であつたであらう。其が、ともかく担ぎなり、提げなりして、二人分も三人分もの荷物を搬ぶ道具を国産する様になつたのが、旅行生活に慣れたほかひ[#「ほかひ」に傍線]の徒の手からであつたものらしい。さうなら、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の略称なるほかひ[#「ほかひ」に傍線]が、発明者の記念として、器の名となるのも、順当な筋道である。
行器を、清音でほかひ[#「ほかひ」に傍線]と発音するだらうと言ふ事は、外居の宛て字からも考へられる。古泉千樫さんも、其郷里房州安房郡辺では、濁らないで言ふことゝ、山の神祭りの供物を、家々から持つて登る時に使ふ為ばかりに保存せられて居る事とを、教へて下さつた。
宮廷に用ゐられた外居が、行器とおなじ出自を持つて居るものとすれば、何時の頃どう言ふ手順で入り込んだか、すべては未詳である。唯、神事に関係のある器である事だけは、確からしい。
巡遊伶人として、芸道の方面に足を踏み込む様になつても、本業呪言を唱へる為事は、続けて居たと言ふ事は考へられる。彼等の職業はどう分化しても、一種の神の信仰は相承せられて行つた。寿詞を誦し、門芸を演じながら廻る旅の間に、神霊の容れ物・神体を収めた箱を持つて歩かなかつたとは考へられない。漂泊布教者が箱入りの神霊を持ち搬んだことは、屡例がある。ほかひ[#「ほかひ」に傍線]は元、実は其用途に宛てられてゐたのだが、利用の方面を拡げて来たものと言ふことが出来よう。柳田国男先生は、曾《かつ》て「うつぼと水の神」と言ふ論文(史学)を公にせられた。箱が元、単なる容れ物でなく、神霊を収めるもので、其筋を辿ると、ひさご[#「ひさご」に傍線]・うつぼ[#「うつぼ」に傍線]の信仰上の意味も知れる事をお説きになつて居る。あれを見て頂けば、私の議論はてつとり早く納得して貰へよう。
ほかひ[#「ほかひ」に傍線]と言はれる道具の元は、巡遊伶人が同時に漂泊布教者であつた事を見せて居り、長旅を続ける神事芸人の団体が、藤原の都には既に在つた事を思はせるのは、微妙な因縁と言はねばならぬ。

     五 ほかひ[#「ほかひ」に傍線]の淪落

乞食者詠の出来たのは、どう新しく見ても、民衆に創作意識のまだ生じて居なかつた時代である。創作詩の始めて現れたのは、人を以て代表させれば、柿本[#(ノ)]人麻呂の後半生の時代である。蟹や鹿の抒情詩らしく見える呪言叙事詩の変態の出来たのは、前半期と時を同じくして居るか、少し古いかと思はれる頃である。
形は寿詞じたてゞ、中身は叙事詩の抒情部分風の発想を採つて居る。此は寿詞申しと語部との融合しかけた事を見せて居るのである。さうして其ほかひ[#「ほかひ」に傍線]たちが、どういふ訣で流離生活を始める事になつたか。
叙事詩を伝承する部曲として、語部はあつたのだが、寿詞を申す職業団体が認められて居たかどうかは疑問である。ほかひ[#「ほかひ」に傍線]なるかきべ[#「かきべ」に傍線]の独立した痕は見えないばかりか、反証さへある。祝詞になつては勿論だが、寿詞さへ、上級神人に口誦せられて居た例は、幾らもあるし、氏々の神主――国造=村の君――と言つた意味から出た事であらうが、氏[#(ノ)]上なる豪族の主人であつた大官が、奏上する様な例もある。さすれば此が職業としての専門化、家職意識を持つた神事とはなつて居なかつたとも言へる様である。而も一方、平安朝には既に祝師(のりとし)などゝ言ふ、わりあひに下の階級の神人が見え出して来た。其に元々、呪言を唱へることが、村の君の専業ではなく、寧、伝来ある村の大切な行事の外は、寿
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