口授の最初の神か、呪言の上に屡《しばしば》現れて来る神、即ある呪言の威力の神格化、かうした事も思はれる。
亀卜の神にして、壱岐の海部《アマ》の卜部《ウラベ》の祀つた亀津比女が何故祝詞と関係をもつかと言ふ問ひは、祝詞と占ひとの交渉の説明を求めることになる。三種祝詞ばかりでなく、寿詞・祝詞には、占ひと関聯する事が多い様である。酒ほかひ[#「酒ほかひ」に傍線]の如きも、占ひに属する側が多かつた。神の示す「ほ」は譬喩表現である。ある物の現状を以て、他の物の運命を此とほりと保証する事がほぐ[#「ほぐ」に傍線]の原義であつて見れば、人は「ほ」の出来る限り好もしい現れを希ふ。祈願には必、どうなるかと言ふ問ひを伴ふ。祝師(のりとし)の職掌が、奇術めいた呪師(のろんじ)を生んだと言ふ推定を、私は持つて居る。奇術は、占ひの芸道化したものなのである。
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この玉串をさし立てゝ、夕日より朝日照るに至るまで、天つのりとの太のりと言をもて宣《ノ》れ。かくのらば、占象《マチ》は、わかひるに、ゆつ篁出でむ。其下より天《アメ》の八井《ヤヰ》出でむ。……(中臣寿詞)
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かうして見ると、呪言には直ちに結果を生じるものと、そして唱へる中に結果の予約なる「ほ」の現れるものとの二つある事が知れる。其次に起る心持ちは、期待する結果の譬喩を以て、神意を牽《ひ》きつけようとする考へである。
内容の上から発生の順序を言へば、天つのりと[#「天つのりと」に傍線]の類は、結果に対して直接表現をとる。ほぐ[#「ほぐ」に傍線]事を要件にする様になるのは、寿詞の第二期である。神の「ほ」から占ひに傾く一方、言語の上に人為の「ほ」を連ねて、逆に幸福な結果を齎さうとするのが、第三期である。わが国の呪言なる寿詞には、此類のものが多く、其儘祝詞へ持ちこしたものと見える。外側の時代別けで言へば、現神なる神主が、神の申し口として寿詞を製作する頃には、此範囲に入るものが多くなるのである。第四期の呪言作者の創作物は、著しく功利的になる。現神思想が薄らぐと共に、人間としての考へから割り出した祈願を、単に神に対してする事となる。

     六 まじなひ

呪言が譬喩表現をとり、神意を牽引する処からまじなひ[#「まじなひ」に傍線]が出て来る。大殿祭・神賀詞のみほぎの玉[#「みほぎの玉」に傍線]は既に、此範囲に入つてゐる。殊に言語の上のまじなひ[#「まじなひ」に傍線]の多いのは、神賀詞である。御ほぎの神宝が、一々意味を持つて居る。白玉・赤玉・青玉・横刀・白馬・白鵠《クヾヒ》・倭文《シドリ》・若水沼間《ワカミヌマ》・鏡が譬喩になつて、縁起のよい詞が続いて居る。此等は名称の上の譬喩から、更に抽象的に敷衍して居るのである。古くから伝へて居る譬喩ほど、具象性と近似性が多くなつて居る。常磐・堅磐は実は古代の室ほぎ[#「室ほぎ」に傍線]から出たもので、床岩《トキハ》・壁岩《カキハ》と、生命の堅固との間に、類似を見たのである。
天の八十蔭(天の御蔭・日の御蔭)葛根《ツナネ》など言ふのは、皆屋の棟から結び垂れた葛《カツラ》の縄である。やはり、室ほぎ[#「室ほぎ」に傍線]に胚胎した。其長いところから、生命の長久のほかひ[#「ほかひ」に傍線]に使はれて居る。桑の木の活力の強さから「いかし八《ヤ》桑枝」と言ふ常套語が出来てゐる。此等は近代の人の考へる様な単純な譬喩ではなく、其等の物の魅力によつて、呪術を行うた時代があつた為であらう。其等の物質の、他を感染させる力によつて、対象物をかぶれさせようとするのである。
おなじく感染力を利用するが、結果は頗《すこぶる》交錯して現れる所の、今一つ別の原因がある。言語精霊の考へである。従来、無制限に称へられて来た、人語に潜む精霊の存在を言ふ説は、ある点まで条件をつけねばなるまい。散文風に現れる日常対話にはない事で、神託・神語にばかりあるものと信じて居たのである。太詔戸[#(ノ)]命が、或は此意味の神ではなからうかと言ふ想像は、前に述べた。ことだま[#「ことだま」に傍線]は言語精霊といふよりは寧、神託の文章に潜む精霊である。
さて、言霊《コトダマ》のさきはふ[#「さきはふ」に傍線]と言ふのは、其活動が対象物に向けて、不思議な力を発揮することである。辻占の古い形に「言霊のさきはふ道の八衢《やちまた》」などゝ言うて居るのは、道行く人の無意識に言ひ捨てる語に神慮を感じ、其暗示を以て神文の精霊の力とするのである。要するに、神語の呪力と予告力とを言ふ語であるらしい。其信仰から、人の作つた呪言にも、神の承認を経たものとして、霊力の伴ふものと考へられたのである。此夕占の側から見ても、亀津比女との交渉は、説明が出来るのである。
私の話は、寿詞を語りながら、まだ何の説明もしない祝詞の範囲まで入り込んで行つた。併し、此二つほど、限界の入り乱れて居るものはない。一つを説く為には、今一つを註釈とせぬ訣には行かない。寿詞の範囲が狭まり、祝詞が段々新しい方面まで拡つて行つた為、大体には、二様の名で区別を立てる様になつた。新作の祝詞と言ふべき分までも、寿詞と言つたのが飛鳥朝の末・藤原の都頃であつた。祝詞の名は、奈良に入つて出来たもので、唯此までもあつた「告《ノ》り処《ト》」なる神事の座で唱へる「のりと言《ゴト》」に限つての名が、漸くすべての呪言の上におし拡められて来たのである。


   巡遊伶人の生活

     一 祝言職

人の厭ふ業病をかつたい[#「かつたい」に傍線]といふ事は、傍居《カタヰ》の意味なる乞食から出たとするのがまづ定論である。さすれば、三百年以来、おなじ病人を、ものよし[#「ものよし」に傍線]と言ひ来つた理由も、訣《わか》る事である。ものよし[#「ものよし」に傍線]なる賤業の者に、さうした患者が多かつたか、又は単に乞食病ひと言ふ位の卑しめを含ませたものとも思はれる。ものよし[#「ものよし」に傍線]が、近代風の乞食者となるまでには、古い意味の乞食者即、浮浪祝言師――巡遊伶人――の過程を履《ふ》んで来て居る事が思はれる。千秋万歳《センズマンザイ》と言へば、しかつめらしいが、民間のものよし[#「ものよし」に傍線]と替る所がなく、後々はものよし[#「ものよし」に傍線]の一部の新称呼とまでなつて了うた。
奈良の地まはりに多い非人部落の一つなるものよし[#「ものよし」に傍線]は、明らかにほかひ[#「ほかひ」に傍線]を為事にした文献を持つて居る。
倭訓栞に引いた「千句付合」では、屋敷をゆるぎなくするものよし[#「ものよし」に傍線]の祝言の功徳から、岩も揺がぬと言ひ、付け句には「景」に転じてゐる。
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あづまより夜ふけてのぼる駒迎へ、夢に見るだに、ものはよく候
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とある狂歌「堀川百首」の歌は、ものよし[#「ものよし」に傍線]の原義を見せてゐる。もの[#「もの」に傍線]は物成《モノナリ》などのもの[#「もの」に傍線]と同様、農産の義と見えるが、或は漠然とした表し方で、王朝以来の慣用発想なる某――「物《モノ》」なる観念に入れて、運勢をもの[#「もの」に傍線]と言うたのかも知れない。
江家次第には、物吉[#「物吉」に傍線]の字の一等古い文献を留めてゐる。もの[#「もの」に傍線]とよし[#「よし」に傍線]と言ふ観念の結びつきは確かだが、語尾の訓み方に疑ひがある。賀正事《ヨゴト》の非公式になつたもので、兼ねて「斎《ユ》の木《キ》の祝言」の元とも言ふべき宮廷の新年行事である。もの[#「もの」に傍線]の意義は、内容が可なり広く用ゐられてゐる。年中の運勢など言ふ風にも感じられる。
大小名の家で家人たちのした祝言は、千秋万歳類似のこと以外にも色々あつたであらう。暮から春へかけて目につくのでは、其外にも二つの事がある。一つは「夢流し(初夢の原形)」、他は、前に書いた「斎《ユ》の木《キ》の祝言」である。此等の為事は、思ふに、古くから一部さむらひ[#「さむらひ」に傍線]人《ビト》の附帯事務であつたらしい。
家人と言つても、奴隷の一種に過ぎないやつこ[#「やつこ」に傍線]が、家の子[#「家の子」に傍線]と時代に応じて言ひ換へられても、後世の武家が「御家人《ゴケニン》」なる名に感じた程、名誉の称号ではなかつた。門跡に事へた候人は、音読してこうにん[#「こうにん」に傍線]とも言うたが、元はやはりさむらひゞと[#「さむらひゞと」に傍線]で、舎人《とねり》を模した私設の随身《ズヰジン》である。其が寺奴の出であらうと言ふ事は、半僧半俗と言ふよりは、形だけは同朋《ドウボウ》じたてゞあるが、生活は全くの在家以上で、殺生を物ともせなかつた。山法師や南都大衆は此候人の示威団体だつたのである。室町御所になつて出来た同朋が、荒事を捨てゝも、多く、社奴・寺奴の方面から出て居たのは、一つの註釈になる。
侍の唱へる「斎《ユ》の木《キ》の下の御方《オンコト》は」に対して「さればその事。めでたく候」と答へる主公は、自身の精霊の代理である。即、返し祝詞と言はれるものゝ類である。寿詞を受けた者の内部から発するはずの声を、てつとり[#「てつとり」に傍線]早く外側から言ふ形であらう。謂はゞ天子の受けられる賀正事《ヨゴト》に、天子の内側の声が答へると言ふ形式があつたものとすれば、よく訣る事だ。自分の内部に潜む精霊の、祝言に応じて言ふ返事の、代役と言ふ事になるのであらう。賀正事も唯の廟堂の権臣としての資格からするのではなからう。それ/″\の氏《ウヂ》[#(ノ)]上《カミ》たり、村の君たる者として、当然持つた神主の祭祀能力から出たものと見える。
返し祝詞は、宮内省掌典部の星野輝興氏が、多くを採集して居られる。
千秋万歳の、宮中初春の祝言に出るのは、室町頃から見えてゐる。此は北畠・桜町の唱門師の為事であつた。忌部の事務の、卜部の手に移つたものは多い。其が更に、陰陽道の方に転じて、その配下の奴隷部落の専務と言ふ姿になつたものであらう。社寺の奴隷はある点では、一つものと誤解せられる傾きがあつた。それを又利用して、口過ぎのたつきとした。社寺の保護が完全に及ばぬ様になると、世の十把一とからげの考へ方に縋つて、大体同じ方向の職業に進むことになつた。手工類の内職で、伝習に基礎を置くものは別として、本業は事実、混乱し易く、此を併合しても目に立たなかつた。唱門師なども、大抵寺奴であり、社奴であると言ふ資格から、入り乱れて、複雑な内容を持つた職業を作り上げたが、唱門なる語の輪廓がむやみに拡つて、すべてを容れる様になつたと言ふ側からも考へられる。
寺の奴隷から出たものは、三井寺の説経師・叡山の導師の唱導を口まねをした、本縁・利生・応報の実例を、章句としては律要素の少い、口頭の節まはしに重きを置くやうな説経を語つて、口過ぎのたつきとしたらしい。さうして後から出た田楽や、猿楽能の影響を受けながら、室町に入つて、曲目も一変したらしい。一方、神人と言はれる社奴の方には、卜部の部下が、忌部以来の寿詞風の「屋敷ぼめ」や、此徒唯一の財源でもあり、神人の唯一財源とも見えた、民間様々の時期の祓《ハラ》へに頼まれて、暮しを立てゝゐた。其が、王朝の末から、段々融合して、「今昔物語」にも見えるやうな、房主頭で、紙冠をつけた祓神主さへ出現する事になつて来た。神職・神人が神の外に仏に事《つか》へることを憎しまなかつた時代だから、かう言ふ異形の祭官をも、不思議とせぬ時が続いて来た。而も、尚一つ唱門の本職と結びつかねばならぬ暗示が、古くからあつた。其はほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の一等古い形式が、前型になつて居るのである。
土御門家の禁制によつて、配下の唱門師が説経節を捨てなければならなくなつたのは、江戸の初めの事である。其までの間は、新形の説経として、謡曲類似の詞曲と「曲舞《クセマヒ》」とを持ち、祓《ハラ》へや、屋敷《ヤシキ》ぼめをして居たのである。唯、わりあひに戦国の世には、歴史家の空想を超越した安らかな生活が、下々の民の上には在
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