#「ほぐ」に傍線]の方が、ほむ[#「ほむ」に傍線]よりは、原義を多く留めて居た。単に予祝すると言ふだけではなかつた。「はだ薄ほ[#「ほ」に傍線]に出し我や……」(神功紀)など言ふ「ほ」は、後には専ら恋歌に使はれる様になつて「表面に現れる」・「顔色に出る」など言ふ事になつて居る。併し、神慮の暗示の、捉へられぬ影として、譬へば占象(うらかた)の様に、象徴式に現れる事を言ふ様だ。末(うら)と、秀(ほ)とを対照して見れば、大体見当がつく。「赭土(あかに)のほ[#「ほ」に傍線]に」など言ふ文句も、赭土の示す「ほ」と言ふ事で、神意の象徴をさす語である。此「ほ」を随伴させる為の詞を唱へる事を、ほぐ[#「ほぐ」に傍線]と言うて居たのであろうが、今一つ前の過程として、神が「ほ」を示すと言ふ義を経て来た事と思ふ。文献に現れた限りのほぐ[#「ほぐ」に傍線]には、うけひ[#「うけひ」に傍線]・うらなひ[#「うらなひ」に傍線]の義が含まれてゐる様である。
ある注意を惹く様な事が起つたとする。古人は、此を神の「ほ」として、其暗示を知らうとした。茨田(まむだ)の堤(又は媛島)に、雁が卵《コ》を産んだ事件があつて、建内宿禰が謡うた(記・紀)と言ふ「汝がみ子や、完《ツヒ》に領《シ》らむと、雁は子産《コム》らし」を、本岐(ほぎ)歌の片哥として居る。常世の雁の産卵を以て、天皇の不死の寿の「ほ」と見て、ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]をしたのである。寿詞が、生命のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]をする口頭文章の名となつて、祝詞と言ふ語が出て来たものと思はれる。原義は、其一に書いたとほりの変遷を経て来るのである。唯ほぐ[#「ほぐ」に傍線]対象が生命であつた事は、事実らしい。
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くしの神 常世にいます いはたゝす 少名御神《スクナミカミ》の神《カム》ほき、ほきくるほし、豊ほき、ほきもとほし、まつり来しみ酒《キ》ぞ(記)
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と言ふ酒ほかひ[#「酒ほかひ」に傍線]の歌は、やはり生命の占ひと祝言とを兼ねて居る事を見せて居る。敦賀から上る御子|品陀和気《ホムダワケ》の身の上を占ふ為に、待ち酒を醸して置かれたのである。一夜酒や、粥占を以て、成否を判断する事がある。此も、酒の出来・不出来によつて、旅人の健康を占問ふのである。さうして帰れば、其酒を飲んで感謝したのであらう。
酒ほかひ[#「酒ほかひ」に傍線]と言ふのは、唯の酒もりではない。酒を醸す最初の言ほぎ[#「言ほぎ」に傍線]の儀式を言ふのだ。どうかすれば、酒をつくる為の祝ひ、上出来の祈願の様に見えるが、其は当らない。「……ますら雄のほぐ[#「ほぐ」に傍線]豊御酒に、我ゑひにけり」(応神紀)は、ほぎし[#「ほぎし」に傍点]の時間省略の形である。此は、待ち酒の恒例化したもので、酒づくりの始めを利用して、長寿の言ほぎ[#「言ほぎ」に傍線]して占うたものなのである。此部分が段々閑却せられて来ると、よく醗酵する様に祈ると言ふ方面が、ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の一つの姿となつて来る。酒ほかひ[#「酒ほかひ」に傍線]なる語が、酒宴の義に近づく理由である。かうした変化は、どの方面のほかひ[#「ほかひ」に傍線]にもあつた事なのである。唯、酒は元もと神事から出たものだから、出発点に於ける占ひの用途を考へない訣《わけ》にはいかない。
室ほぎ[#「室ほぎ」に傍線]の側になると、此因果関係は交錯して居る。弘計《ヲケ》王の室ほぎ[#「室ほぎ」に傍線]の寿詞は、恐らく世間一般に行はれて居た文句なのであらう。建て物の部分々々に詞を寄せて、家長の生命を寿して居る。柱は心の鎮り、梁は心の栄《ハヤ》し、椽は心の整り、蘆※[#「權のつくり」、第4水準2−91−83]《エツリ》は心の平ぎ、葛根《ツナネ》は命の堅め、葺き芽は富みの過剰《アマリ》を示すと言ふ風の文句の後が、今用ゐて居る酒の来歴を述べる讃歌風のもので、酒ほかひ[#「酒ほかひ」に傍線]の変形である。さうして其後が「掌やらゝに、拍《ウ》ちあげ給はね。わが長寿者《トコヨ》(常齢)たち」(顕宗紀)の囃し詞めいた文で結んでゐる。此処にも、室ほぎ[#「室ほぎ」に傍線]と生命の寿との関係が見える。
新築によつて、生活の改まらうとする際に、家長の運命を定めて置かうとするのである。此方は、生命と其対照に置かれる物質とはあるが、占ひの考へは、含まれて居ない様だ。唯あるのは、譬喩から来るまじなひ[#「まじなひ」に傍線]である。
新築の家でなくとも、言ほぎ[#「言ほぎ」に傍線]によつて、新室とおなじ様にとりなす事の出来るものと考へた事もあるらしい。毎年の新嘗に、特に新嘗屋其他の新室を建てる事は出来ないから、祓《ハラ》へと室ほぎ[#「室ほぎ」に傍線]とを兼ねた大殿祭《オホトノホカヒ》の祝詞の様なものも出来た。例年の新嘗・神今食《ジンコンジキ》並びに大嘗祭には、式に先つて、忌部が、天子平常の生活に必出入せられる殿舎を廻つて、四隅にみほぎの玉[#「みほぎの玉」に傍線]を懸けて、祝詞を唱へて歩いた。みほぎ[#「みほぎ」に傍線]と言ふのは、神が表すべき運命の暗示を、予め人が用意して於て祝福するので、此場合、玉は神璽《しんじ》として用ゐたのではない。出雲国造神賀詞の「白玉の大御白髪まし、赤玉のみあからびまし、青玉のみづえの玉のゆきあひに、明《アキ》つ御神と大八島国しろしめす……」など言ふ譬喩を含んだものなのである。
四 よごと
寿詞が、完全に齢言《ヨゴト》の用語例に入つて来たのは、宮廷の行事が、機会毎に天子の寿をなす傾きを持つてゐたからであらう。民間の呪言が、悉く家長の健康・幸福を祈る事を、目的としてばかり居たとは言へない。単純に、農作・建築・労働などに効果を招来しようとする呪言が、多くあつたに違ひない。
毎年々頭、郡臣拝賀のをり、長臣が代表して寿詞《ヨゴト》を奏した例は、奈良朝迄も続いたものと見る事が出来る。文字は「賀正事」と宛てゝ居るが、やはりよごと[#「よごと」に傍線]である。家持の「今日ふる雪のいや頻《シ》け。よごと[#「よごと」に傍線]」(万葉巻二十)は、此寿詞の効果によつて、永久に寿詞の奏を受けさせ給ふ程に、長寿あらせ給へと言ふのである。又「千年をかねて、たぬしき完《ヲ》へめ」(古今巻二十)なども、新年宴の歓楽を思ふばかりでなく、寿詞によつて、天子の寿の久しさを信じ得た人の、君を寿しながら持つ豊かな期待である。古くは各豪族各部曲から、代表者が出て、其々《それぞれ》伝来の寿詞《ヨゴト》を申した事、誄詞《シヌビゴト》と同様であつた事と思はれる。其文言は、中臣天神寿詞・神賀詞などに幾分似通うたものであらう。真直に延命の希望ばかりを述べる事は、尠かつたらうと考へる。
最古い呪言は、神託のまゝ伝襲せられたと言ふ信仰の下に、神の断案であり、約束であり、強要でもあつたのである。神の呪言の威力は永久に亡びぬものとして大切に秘密に伝誦せられて居た。「天《アマ》つのりとの太《フト》のりと言《ゴト》」と称せられるものが、其なのである。文章の一部分に、此神授の古い呪言を含んだものが、忌部氏の祝詞並びに、伊勢神宮祝詞・中臣氏の天神寿詞の中にある。
殊に其古い姿を思はせて居るのは、鎮火祭の祝詞である。
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天降りよさしまつりし時に、言《コト》よさしまつりし天つのりと[#「のりと」に傍線]の太のりと言[#「のりと言」に傍線]を以ちて申さく
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と前置きし、
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……と、言教へ給ひき。此によりてたゝへ言《コト》完《ヲ》へまつらば、皇御孫《スメミマ》の尊の朝廷《ミカド》に御心暴(いちはや)び給はじとして……天つのりと[#「のりと」に傍線]の太のりと言[#「のりと言」に傍線]をもちて、たゝへ言|完《ヲ》へまつらくと申す。
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と結んで居る。其中の部分が、天つ祝詞なのである。火の神の来歴から、其暴力を逞くした場合には、其を防ぐ方便を神から授かって居る。火の神の弱点も知つて居る。其敵として、水・瓢・埴・川菜のある事まで、母神の配慮によつて判つて居ると説く文句である。神言の故を以て、精霊の弱点をおびやかすのである。此祝詞は、今在る祝詞の中、まづ一等古いもので、齢言《ヨゴト》以外の寿詞《ヨゴト》の俤を示すものではなからうかと思ふ。但、天つ祝詞以外の文句は、時代は遥かに遅れて居る。
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最愛季子《マナオトゴ》に火産霊《ホムスビノ》神生み給ひて、みほと焼かえて岩隠りまして[#「みほと焼かえて岩隠りまして」に傍点]、夜は七夜、日は七日、我をな見給ひそ。我が夫の命と申し給ひき。此七日には足らずて、隠ります事あやしと見そなはす時、火を生み給ひてみほと焼かえましき[#「火を生み給ひてみほと焼かえましき」に傍点]。
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など言ふ文は、古風であるが、表現が如何にも不熟である。此程古拙なものは、他には見当らない。呼応法の古い形式を、充分に残してゐる。
他の天つのりと[#「天つのりと」に傍線]云々を称する祝詞は、皆別に天つ祝詞があつて、其部分を示さなかつたのかと思はれる程、其らしい匂ひを留めぬものである。大祓祝詞に見えた天つ祝詞などは、恐らく文中には省いてあるのであらうが、中には、精霊を嚇す為に、其伝来を誇示したものもある様だし、或はもつと不純な動機から、我が家の祝詞の伝襲に、時代をつけようとしたのかと思はれるものさへある。
天つ祝詞の類の呪言が一等古いもので、此は多く、伝承を失うて了うた。所謂三種祝詞と称するとほかみゑみため[#「とほかみゑみため」に傍線]と言ふ呪言が、天つのりと[#「天つのりと」に傍線]だとするのは、鈴木重胤である。
五 天つ祝詞
天つ祝詞にも色々あつたらしく思はれる。鎮火祭の祝詞などでも、挿入の部分は、とほかみゑみため[#「とほかみゑみため」に傍線]などゝは、かなり様子が変つて居る。天つ祝詞を含んで、唱へる人の考への這入つて居る此祝詞は、第二期のものである。今一つ前の形が天つ祝詞の名で一括せられてゐる古い寿言なのである。第三期以下の形は、神の寿詞の姿をうつす事によつて、呪言としての威力が生ずると言ふ考へに基いて居る。其製作者は、現神《アキツカミ》即神主なる権力者であつたであらう。第四期としては、最大きな現神の宮廷に、呪言の代表者を置く事になつた時代で、天武天皇の頃である。
「亀卜祭文(釈紀引用亀兆伝)」には、太詔戸《フトノリト》[#(ノ)]命の名が見え、亀兆伝註には、亀津比女《カメツヒメ》[#(ノ)]命の又の名を天津詔戸太詔戸《アマツノリトフトノリト》[#(ノ)]命として居る。一とほり見れば、占ひの神らしく見える。今一歩進めて見れば、三種祝詞に属した神と言ふ事になる。思ふに、亀津比女[#(ノ)]命は固より亀卜の神であらう。太詔戸[#(ノ)]命は一般の天つ祝詞の神であり、亀津比女[#(ノ)]命は其一部の「とほかみゑみため」の呪言の神なのではなからうか。此神は祝詞屋の神で、一柱とも二柱とも考へる事が出来たのであらう。若し此考へがなり立つとすれば、太詔戸[#(ノ)]命は、寿詞・祝詞に対して、どう言ふ位置を持つ事になるであらう。
呪言の最初の口授者は、祝詞の内容から考へると、かぶろき[#「かぶろき」に傍線]、かぶろみ[#「かぶろみ」に傍線]の命らしく見える。併し、此は唯の伝説で、こんなに帰一せない以前には、口授をはじめた神が沢山あつたに違ひない。ところが伝来の古さを尊ぶ所から、勢力ある神の方へ傾いて行つたのであらう。天津詔戸太詔戸[#(ノ)]命は、古い呪言一切に関して、ある職能を持つた神と考へられたものとしても、何時からの事かは知れない。
神語を伝誦する精神から、呪言自身の神が考へられ、呪言の威力を擁護し、忘却を防ぐ神の存在も必要になつて来る。此意味に於て、太詔戸[#(ノ)]命と言ふ不思議な名の神も祀られ出したのではなからうか。其外に、今二つの考へ方がある。呪言
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