財を持ち出す処が描いてある。年越しの夜に、仮面を著けた人が訪問すると言ふ形は、必民間伝承から得たものに違ひない。
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面には、かづく[#「かづく」に傍線]或はかぶる[#「かぶる」に傍線]と言ふ語が、用語例になつて居るのは、古代の面が頭上から顔を掩うて居た事を示して居る。
能楽で見ても、面をつけるのは、神・精霊の外は女である。女は大抵の場合、神憑きと一つものと思はれる狂女である。能役者が、直面《ヒタオモテ》では女がつとめられないと言ふ理由の外に、神のよりまし[#「よりまし」に傍線]なる為に同格に扱うたと考へる事が出来るかも知れぬ。太子と能楽との伝説を離れて、静かに考へて見ると、翁などの原型として、簡単な仮面に頭を包んだ田遊び[#「田遊び」に傍線]の舞ひぶりが、空想せられるのである。当麻寺の菩薩|練道《レンダウ》の如きも、在来の神祭りに降臨する神々の仮面姿が、裏打ちになつて居るのではあるまいか。
古事記に残つて居る文章のなかで、叙事詩の姿を留めたものを択りわけて見ると、抒情部分のうた[#「うた」に傍線]ばかりでなく、其中に叙事部分のかたり[#「かたり」に傍線]に属するものも見出される。叙事部は地の文である。地の文の発生は、第一歩にはないはずだ。必《かならず》形は一人称で、而も内容は三人称風のものである。其が、明らかに地の文の意義を展いて来るのは、下地に劇的発表の要求があるのである。此事は様式論として、詳しく書く機会があらう。
かくて、偶人劇の存在した事は信じてよい。併し、どの程度まで、身体表出をうつし出したか。どの位の広さに亘つて、村々の祭りに使はれたか。すべては疑問である。遥かな国から来る神と、地物の精霊と二つ乍ら、偶人を以て現したか。其も知れない。後世の材料から見れば、才の男[#「才の男」に傍線]は地物の精霊らしく見える。併し此事に就ては、呪言の展開に書いて置いた。其上、人と人形との混合演技もなかつたとは言へぬ様である。
偶人の神事演劇には単純な舞ばかりのもあつたゞらう。叙事詩に現れた神の来歴を、毎年くり返しもしたであらう。要するに神事演劇は、人・人形に拘らず、演技者はすべてからだの表出ばかりで、抒情部分・叙事部分の悉くが、脇から人の附けたものである。
後世の祭礼の人形の、唯ぢつとして、動かない様なものでは無かつたであらう。「才の男の態」を行ふ
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