なかつた事を見せて居るのではなからうか。
[#ここで字下げ終わり]
唯一点、人形については、近世の神道学者の注意が向いて居ないばかりか、古代日本の純粋な生産と考へない癖がついて居る様だから、話頭を触れておかねばならぬ気がする。
二 くゞつ[#「くゞつ」に傍線]以前の偶人劇
浮浪民なるくゞつ[#「くゞつ」に傍線]の民の女が、人形を舞はした事は、平安朝中期に文献がある。其盛んに見えたのは、真に突如として、室町の頃からである。此時代を史家は、戦争と武人跋扈との暗黒時代ときはめをつけて居るが、書き物だけでは、実際、江戸の平民の文明を暗示する豊かな力の充ち満ちた時代である。上層・中層の文明のをどみ[#「をどみ」に傍線]に倦んで、地下《ヂゲ》の一番下積みになつて居た物の、顧みかけられた世間であつた。此以前にも、偶人劇が所々方々に下級神人や、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の手で行はれて居た事が察せられる。新式であつた為、都人士に歓ばれた偶人劇の団体が、摂津広田の西の宮を中心とするものであつたらう。が、恐らく、此を人形芝居の元祖と見る事は出来ぬ。此側の伝へでは、淡路人形を重く見て居る。併し、西の宮が海に関係深い点から観るべきで、此神の勢力の下にあつた対岸の淡路の島人から、優れた上手が出たのも、尤《もつとも》である。室町になると、段々、男の人形を使ふ者の勢力が出て来るが、西の宮系統の偶人劇は元、女殊に遊女の手に習練を積まれたものであらう。淀川と其支流の舟着きに、定居生活をし始めて居た遊女は西の宮と関係が深かつた。西の宮信仰が関西に弘まつたのは、うかれ人[#「うかれ人」に傍線]の唱導が元らしい。うかれ人[#「うかれ人」に傍線]が、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]の古風な神訪問の形式を行うたのだらう。えびすかき[#「えびすかき」に傍線]と言うた人形舞はしは、此古い単純な形を後世に残したのであつた。
大正の初年までも、面を被つて「西の宮からえびす様[#「えびす様」に傍線]がお礼に来ました」と唱へて門毎に踊つた乞食も、此流れである。「大黒舞」も又えびすかき[#「えびすかき」に傍線]の偶人に対する、神に扮した人の身ぶり芝居の一つであつた事が知れる。遅れて出た「大黒舞」が、元禄以前既に、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]以外の領分を拡げて、舞ひぶりの単純なわりには、歌詞がやゝ複雑な叙事に傾いて
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