霊の容れ物・神体を収めた箱を持つて歩かなかつたとは考へられない。漂泊布教者が箱入りの神霊を持ち搬んだことは、屡例がある。ほかひ[#「ほかひ」に傍線]は元、実は其用途に宛てられてゐたのだが、利用の方面を拡げて来たものと言ふことが出来よう。柳田国男先生は、曾《かつ》て「うつぼと水の神」と言ふ論文(史学)を公にせられた。箱が元、単なる容れ物でなく、神霊を収めるもので、其筋を辿ると、ひさご[#「ひさご」に傍線]・うつぼ[#「うつぼ」に傍線]の信仰上の意味も知れる事をお説きになつて居る。あれを見て頂けば、私の議論はてつとり早く納得して貰へよう。
ほかひ[#「ほかひ」に傍線]と言はれる道具の元は、巡遊伶人が同時に漂泊布教者であつた事を見せて居り、長旅を続ける神事芸人の団体が、藤原の都には既に在つた事を思はせるのは、微妙な因縁と言はねばならぬ。
五 ほかひ[#「ほかひ」に傍線]の淪落
乞食者詠の出来たのは、どう新しく見ても、民衆に創作意識のまだ生じて居なかつた時代である。創作詩の始めて現れたのは、人を以て代表させれば、柿本[#(ノ)]人麻呂の後半生の時代である。蟹や鹿の抒情詩らしく見える呪言叙事詩の変態の出来たのは、前半期と時を同じくして居るか、少し古いかと思はれる頃である。
形は寿詞じたてゞ、中身は叙事詩の抒情部分風の発想を採つて居る。此は寿詞申しと語部との融合しかけた事を見せて居るのである。さうして其ほかひ[#「ほかひ」に傍線]たちが、どういふ訣で流離生活を始める事になつたか。
叙事詩を伝承する部曲として、語部はあつたのだが、寿詞を申す職業団体が認められて居たかどうかは疑問である。ほかひ[#「ほかひ」に傍線]なるかきべ[#「かきべ」に傍線]の独立した痕は見えないばかりか、反証さへある。祝詞になつては勿論だが、寿詞さへ、上級神人に口誦せられて居た例は、幾らもあるし、氏々の神主――国造=村の君――と言つた意味から出た事であらうが、氏[#(ノ)]上なる豪族の主人であつた大官が、奏上する様な例もある。さすれば此が職業としての専門化、家職意識を持つた神事とはなつて居なかつたとも言へる様である。而も一方、平安朝には既に祝師(のりとし)などゝ言ふ、わりあひに下の階級の神人が見え出して来た。其に元々、呪言を唱へることが、村の君の専業ではなく、寧、伝来ある村の大切な行事の外は、寿
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