ひ」に傍線]の様式が分化して芸道化しかけた時、其等の動物を苦しめる風の文句が強く表され、動作にも其を演じて見せる様になり、更に其が降服して、人間の為に身を捧げる事を光栄とすると言つた表現を、詞にも、身ぶり[#「身ぶり」に傍線]にも出して来るとすると、此歌の出来た元の意義は納得出来る。此歌の形式側の話は、後にしたい。
三 当てぶりの舞
呪言の効果を強める為に、呪言を唱へる間に、精霊をかぶれさせ、或はおどす様な動作をする。田楽・猿楽にすら、とつぎ[#「とつぎ」に傍線]の様を実演した俤は残つて居る。此は精霊がかまけて、生産の豊かになる事を思ふのである。精霊をいぢめ懲す様も行はれたに違ひない。此が身ぶり[#「身ぶり」に傍線]の、神事に深い関係を持つ様になる一つの理由である。而も、神事の傾向として、祭式を舞踊化し、演劇化する所から、身ぶり舞[#「身ぶり舞」に傍線]をつくり上げたのである。
隼人のわざをぎ[#「わざをぎ」に傍線]は、叙事詩の起原説明には、単に説明に過ぎなからうが、舞踊化の程度の尠いものと察せられる、水に溺れる人の身ぶり[#「身ぶり」に傍線]・物まね[#「物まね」に傍線]である。
殊舞(たつゝまひ)は起ちつ居つして舞ふからの名だ、と言ふ事になつて居るが、王朝以後|屡《しばしば》民間に行はれた「侏儒舞《ヒキウドマヒ》」の古いものを、字格を書き違へて伝へ、たつゝ[#「たつゝ」に傍線]なる古語を名として居た為に、訣らなくなつたのであらう。此舞を舞うたのは弘計[#(ノ)]王で、度々言うて来た縮見《シヾミ》の室ほぎ[#「室ほぎ」に傍線]の時であつたのも、家の精霊を小人と考へて居た平安朝頃の観念を、溯らして見る事が出来れば、説明はうまくつく。
鳥名子《トナゴ》舞は、伊勢神宮で久しい伝統を称してゐるものである。普通ひよ/\舞[#「ひよ/\舞」に傍線]と言うた上に、鶏の雛の姿を模する舞だと言ふから、やはりあの跛の走る様なからだつき[#「からだつき」に傍線]の身ぶりなのだ。
鹿や蟹のをこ[#「をこ」に傍点]めいた動作をまねる人か人形かの身ぶりが、寿詞系統のほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の謡について居なかつたとは言はれないのである。
四 ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の遺物
ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の後世に残したものは、由緒ある名称
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