男の態、呪師・田楽側の奇術や、器楽もあれば、狂言があり、散楽伝来の演劇がゝつたものもあり、同じ筋の軽業の類もある。又盲僧・瞽女《ごぜ》の芸、性欲の殊に穢い方面を誇張した「身ぶり芸」も行はれた事が知れる。尤《もつとも》、まじめな曲舞なども交つてゐたに違ひない。
此が、田遊び・踊躍《ユヤク》念仏を除いた田楽の全内容にもなつた。今、能楽と言ふ猿楽も、初めはやはり、此であつたであらう。田楽が武家の愛護を受けてから、曲舞に近づいて行つたと同じく、猿楽も肝腎の狂言は客位に置く様になつて、能芸即神事舞踊に演劇要素を多くした。声楽方面には、曲舞・田楽・反閇《ヘンバイ》などの及ばぬ境地を拓いた。取材は改り、曲目も抜群に増加し、詞章はとりわけ当代の美を極めた。そして、室町将軍の擁護を受ける様になつてからは、愈向上した。けれども、元は唱門師《シヨモジン》同様の祝言もする賤民の一種であつて、将軍の恩顧を得たのも、容色を表とする芸奴であつたからである。
幸若太夫が「日本記」と称する神代語りを主とするのは、反閇《ヘンバイ》の謂はれを説くためである。田楽法師の「中門口《チユウモングチ》」を大事とするのは、神来臨して室寿《ムロホギ》をする形式である。猿楽に翁をおもんじ、黒尉《クロジヨウ》の足を踏むのも、家及び土地の祝言と反閇《ヘンバイ》とである。
[#5字下げ]四 唱門師の運動[#「四 唱門師の運動」は中見出し]
唱門師は、神事関係の者ばかりでなく、寺との因縁の深かつたものも多かつた。だが、大寺の声聞身《シヨモジン》なる奴隷が、唱門師(しよもじん)の字を宛てられる様になつたのは、陰陽家の配下になつた頃からの事である。
彼等の多くは、寺の開山などに帰服した原住者の子孫であつたから、祀る神を別に持つてゐて、本主の寺の宗旨に、必しも依らねばならないことはなかつた。神奴でも同じで、祖先が主神に服従を誓うた関係を、長く継続せねばならぬと信じてゐたゞけで、社の神以外に、自身の神を信じて居た例が段々ある。
さうした「鬼の子孫」の「童子」のと言はれる村或は、団体が、寺の内外に居た。其等ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]と童子との外に、今一つ声聞身出自の一流派に属する団体がある。其は修験者とも、山伏し・野ぶしとも言うた人々である。
修験道の起りは藤原の都時代とあるが、果して役《エン》[#(ノ)]小角《ヲヅヌ》が開
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