」は中見出し]

莎草《ハマスゲ》で編んだ嚢《ふくろ》を持つたからの名だと言ふくゞつ[#「くゞつ」に傍線]の民は、実は平安朝の学者の物好きな合理観から、今におき、大陸・半島或は欧洲に亘る流民と一つ種族の様に見られて居る。が、私は、此ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の中に、沢山のくゞつ[#「くゞつ」に傍線]も交つて居ることゝ思ふ。くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の名に、宛て字せられる傀儡子の生活と、何処迄も不思議に合うてゐる。彼等は人形を呪言の受けて[#「受けて」に傍線]即、わき[#「わき」に傍線]としたらしい。志賀《シカ》[#(ノ)]島の海部の祭りに出る者は固より、海部の本主となつた八幡神のわき神[#「わき神」に傍線]も、常に偶人である。
室町になつて、淡路・西[#(ノ)]宮の間から、突然に「人形舞」が現れて来た様に見える。が、其長い間を、海部の子孫の流民の芸能の間に潜んで来たものと見るべきである。人形は精霊の代表者であり、或は穢悪の負担者であるから、此を平気に弄ぶまでには、長い時日を要したわけである。
宮廷の神楽は、八幡系統のものであるが、人形だけは採用しなかつた。人間の才《さい》の男《を》があつたからである。だが、社々では、人形か仮面かを使うた処が多い。遂に人形が主神と考へられる様にもなつた。
人形が才の男、即、反抗方《モドキ》に廻るのだから、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]本流の演芸では、偶人劇と歌謡とを主としたらしい。だから、舞踊に秀でたものもあつたが、演劇の方面は伸びなかつた。
ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]は神人でもあり、芸人でもあり、呪禁《ジユゴン》師(※[#「醫」の「酉」に代えて「巫」、第4水準2−78−8])でもあつた。時には呪咀もし、奪掠もした。けれども、後代の意味の乞食者の内容を備へて来たのは、平安朝になつて後の事である。
聖武の朝、行基門徒に限つて、托鉢生活を免してから、得度せないまでも、道心者の階級が認められて来た。其と共に、乞食行法で生計を立てるものは、寺の所属と認められ、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]即《すなはち》寺奴の唱門師となつたのであらう。さうでない者は、村に定住して農耕の傍、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]をする様になつた。だから、僧形ではなくて、社奴の様な姿をとる事になつたのであらう。
後世、寺社奉行を設けなければならなか
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