い者で、神楽の定型を芸の基礎として居る。而も、雅楽を伝承した楽戸の末でもあつた。其が、時勢に伴うて、雅楽を棄てゝ、雑楽・曲舞を演じたのだ。何にしても「曲舞」の寺出自なるに対して、多くは社及び神宮寺を仰いだ一流である様である。
其先輩の田楽は、明らかに、呪師《ノロンジ》の後で、呪師の占ひに絡んだ奇術や、演芸に、外来の散楽を採り込んで、神社以前から伝つた民間の舞踊・演芸・道具・様式を多くとり込んでゐる。此は、恐らく、法師・陰陽師の別派で、元は神奴であつたものであらう。さうして演芸期間も、他の者の正月・歳暮なのに対して、五月田植ゑの際に――或は正月農事始めにも――行うた「田舞《タマヒ》」の後である。此「田舞」は散楽と演芸種目も似て居る処から、段々近よつて行つたと見る方がよい。やはり、田畠のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]で、仮装行列を条件として居る。曲舞の叙事詩を、伝来の狂言の側から採り込んで、猿楽の前型となつたわけである。
此外、種々の芸人皆、寺奴・社奴出自でないものはない。其芸人としての表芸には王朝末から鎌倉へかけても、まだことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]を立てゝゐた。即|唱門師《シヨモジン》の陰陽師配下についたわけである。此等が悉く卜部系統の者、海語部の後とは言はれないが、戸籍整理や、賦役・課税を避けたりして、寺奴となつたほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の系統を襲《ツ》ぐものとだけは言はれる。
そして又、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]には、卜部となつた者もあり、ならない者もあつたらうし、生活様式を学んだ為に、同じ系統と看做された者もあらうが、海部や、山の神人(山人・山姥など、鬼神化して考へられた)の多かつた事は事実である。
ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]の一方の大きな部分は、其呪法と演芸とで、諸国に乞食の旅をする時、頭に戴いた霊笥《タマケ》に神霊を容れて歩いたらしい。其|霊笥《タマケ》は、ほかひ[#「ほかひ」に傍線](行器)――外居[#「外居」に傍線]・ほかゐ[#「ほかゐ」に傍線]など書くのは、平安中期からの誤り――と言はれて、一般の人の旅行具となる程、彼等は流民生活を続けて居た。手に提げ、担ぎ、或は其に腰うちかけて、祝福するのがほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の表芸であつた。
[#5字下げ]二 くゞつ[#「くゞつ」に傍線]の民[#「二 くゞつの民
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