。
中臣祝詞の間や末に、斎部の唱へる部分があつた習慣から、斎部祝詞が分離したものか。斎部祝詞が、祝詞の精髄なる天つ祝詞と唱へて、祓除《ハラヘ》・鎮斎《イハヒ》に関した物ばかりである事――此部分だけ独立したのだらう――、辞別《コトワキ》の部分が斎部関係の事項であるものが多い事――幣帛や、大宮売《オホミヤノメ》[#(ノ)]神や斎部関係の事が、其《それ》だ。辞別は、必しも文の末ばかりでない処を見ると、こゝだけ辞の変る処であつたのだ。「又申さく」「殊《コト》更に申さく」などの意に考へられて、宣命にも、祝詞にも、さうした用例が出て来た――などが此を示して居る。延喜式祝詞の前後或は中に介在して、宣命と同じ形式の伝宣者の詞がある様に、今一つ古い形の中臣祝詞にも、中臣の言ふ部分と、斎部の誦する部分とがあつたのであらう。
かう考へて来ると、呪言には古くから「地」の部分と「詞」の部分とが分れる傾向が見えて居たのである。此が祝詞の抜きさし自由な形になつて、一部分を唱へる事も出来、伝来の詞を中に、附加文が添はつて来たりもした理由である。さうして、此呪言の神聖な来歴を語る呪言以外に附加せられた部分が、第一義ののりと[#「のりと」に傍線]であつたらしく、其|心《シン》になつてゐるものが、古くはよごと[#「よごと」に傍線]を以て総称せられて居たのだ。よごと[#「よごと」に傍線]が段々一定の目的を持つた物に限られる様になつてから、元の意義の儘のよごと[#「よごと」に傍線]に近い物ばかりを掌《つかさど》り、よごと[#「よごと」に傍線]に関聯した為事を表にする斎部の地位が降つて来る様になつたのも、時勢である。其は一方、呪言の神の原義が忘れられた為である。
かむろぎ[#「かむろぎ」に傍線]・かむろみ[#「かむろみ」に傍線]と言ふ語には、高天原の神のいづれをも、随意に入れ替へて考へる事が出来た。父母であり、又考位・妣位の祖先でもある神なのだ。だから、かむろぎ[#「かむろぎ」に傍線]即たかみむすびの神[#「たかみむすびの神」に傍線]に、天照大神を並べてかむろみ[#「かむろみ」に傍線]と考へてゐた事もある。此両位の神に発生した呪言が、円満具足し、其存続が保障せられ、更に発言者の権威以外に、外在の威霊が飛来すると言ふ様に展開して行つた。私の考へでは、詞霊《コトダマ》信仰の元なることゞむすび[#「ことゞむすび」に
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