に昇進したが、女性の分担は軽く許りなつて行つた。嬪・夫人にも進むことの出来た御禊奉仕の地位も、其由来は早く忘れられて了うた。加ふるに御禊の間、傍に居て、呪詞を唱へる中臣の職は、さほど重視せられなくなり、「撰善言司」設置以後、宣命化したのりと[#「のりと」に傍線]を宣する様になつた。だから大抵の寿詞・護詞系統の物語は、中臣女の口に移つて行つたものと見てよいことは、傍証もある。
中臣女から出た一派の語部は、中臣[#(ノ)]志斐《シヒ》[#(ノ)]連などであらう。志斐《シヒ》[#(ノ)]連には、男で国史の表面に出てゐるものもある。持統天皇と問答した志斐《シヒ》[#(ノ)]嫗(万葉集巻三)は(しひ[#「しひ」に傍線]に二流あるが)中臣の複姓《コウヂ》の人に違ひはない。此は、男女とも奉仕した家の例に当るのであつて、物部・大伴其他の氏々にもある例である。後に其風を変へたのは猿女で、古くは、男で仕へるものは宇治[#(ノ)]土公《ツチギミ》を名のり、女で勤めるのが、猿女であつたと見る方がよい。男女共同で家をなしたものが、後に女主に圧されて、男も仕へる時は、猿女[#(ノ)]君の資格でする様になつたものである。「猿淡海《サルアフミ》」など言ふのも宇治土公の一族で、九州にゐた者であらう。女でないから、猿だけを称したのである。
其、族人の遊行するものが、すべて族長即、氏の神主の資格(こともち[#「こともち」に傍線]の信仰から)を持ち得た為に、猿丸太夫の名が広く、行はれたものと考へてよい。其諷誦宣布した詞章が行はれ、時代々々の改作を経て、短歌の形に定まつたのは、奈良・平安の間の事であつたらう。さうして其詞章の作者を抽き出して、一人の猿丸太夫と定めたのであらう。柿[#(ノ)]本[#(ノ)]人麻呂なども、さうした方面から作物及びひとまろ[#「ひとまろ」に傍線]の名を見ねばならぬ処がある様に思ふ。
とにかく、伝統古い猿女の男が、最新しい短歌の遊行伶人となつた事を仮説して見るのは、意義がありさうである。鎮魂祭の真言なる短章(ふり)が、或は、かうした方面から、短詩形の普及を早めたことを思ひ浮べさせる。
語部の職掌は、一方かういふ分科もあつた。語部が鎮魂の「歌《ウタ》[#(ノ)]本《モト》」を語る事が見え、又「事[#(ノ)]本」を告《ノ》るなど言ふ事も見えてゐる。うた[#「うた」に傍線]やことわざ[#「
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