来たうた[#「うた」に傍線]が、自由な創作に移つて行く様になつたのは、尤である。
此種のうた[#「うた」に傍線]は、鎮護詞《イハヒゴト》系統から出たものばかりであつたと言うてよい。殿祭《トノホカヒ》・室寿《ムロホギ》のうた[#「うた」に傍線]は、家讃め・人讃め・※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅・宴遊のうた[#「うた」に傍線]を分化し、鎮魂の側からは、国讃め、妻|覓《マ》ぎ・嬬《つま》偲び・賀寿・挽歌・祈願・起請などに展開した。挽歌の如きも、しぬびごと[#「しぬびごと」に傍線]系統の物ではなく、思慕の意を陳べて、魂を迎寄《コヒヨ》せて、肉身に固著《フラ》しめるふり[#「ふり」に傍線]の変態なのであつた。
歌の中、鎮魂の古式に関係の遠いものは、叙事詩及び其系統に新しく出来た、壬生部《ミブベ》・名代部《ナシロベ》・子代部《コシロベ》の伝へた物語から脱落したものである。又或ものは系譜《ヨツギ》――口立《クチダ》ての――の挿入句などからも出てゐる事が考へられる。
記・紀に見えた大歌は、やはり真言として、のりと[#「のりと」に傍線]に於ける天つのりと[#「天つのりと」に傍線]同様、各種の鎮魂行儀に、威力ある呪文として用ゐられたのがはじまりで、後までも、此意義は薄々ながら失せなかつた。大歌は次第に、声楽としての用途を展開して行つて、尚神事呪法と関係あるものもあり、其根本義から遠のいたものも出来た。記・紀にすら、詞章は伝りながら、既に用ゐられなくなつたもの、わざ[#「わざ」に傍線]・ふり[#「ふり」に傍線]の条件なる動作の忘れられたもの、後代附加のものも含めて居る様だ。だから替へ歌は文言や由来の記憶が錯乱したのや、詞章伝つて所縁不明になつたものも、勿論沢山にある道理だ。鎮魂祭・節折《ヨヲ》り・御神楽共に、元は、鎮魂の目的から出た、呪式の重複した神事である。うた[#「うた」に傍線]に近づいて行つたのは、信仰の変改である。
鎮魂と神楽とは、段々うた[#「うた」に傍線]を主にして行つた上、平安中期以前既に、短歌の形を本意にする様になつて居た。さうした大歌も、必しもすべて宮廷出自の物に限つて居なかつた。他氏のうた[#「うた」に傍線]或は、民間流伝の物までも、其に伴ふ物語又は説話から威力を信じて、採用したのも交つてゐる。
大歌には既に其所属の叙事詩の亡びて、説話
前へ 次へ
全69ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング