む」に傍線]ともなつて居る。又ほさく[#「ほさく」に傍線]と言ふ形もあつた。うらふ[#「うらふ」に傍線]は、夙く一方に意義が傾き過ぎたが、ほく[#「ほく」に傍線]は長く原義に近く留つて居た様に見える。唯恐らくは、ほ[#「ほ」に傍線]の現出するまで祝言を陳べる事かと思ふのに、記・紀・祝詞などの用例は、象徴となる物を手に持ち、或は机に据ゑて、其物の属性を、対象なる人の性質・外形に準《ヨソ》へて言ふか、全く内的には関係なくとも、声音の聯想で、祝言を結びつけて行くかゞ、普通になつて居た。
其中常例として捧げられた物は御富岐《ミホキ》[#(ノ)]玉である。聖寿を護る誓約《ウケヒ》のほ[#「ほ」に傍線]として、宮殿の精霊が出す――実は、斎部の官人が、天子常在の仁寿殿及び浴殿・厠殿の四方に一つ宛懸けるのである――事になつて居たらしい。大殿|祭《ホカヒ》を行ふ日の夜明けに、中臣・斎部の、官人・御巫《ミカムコ》等行列を作つて常用門と言ふべき延政門におとづれて、其処から入つて斎部が祝詞を唱へて廻る。宮殿の精霊に供物を散供して歩くのが、御巫の役だ。此は、呪言の神が宮殿を祝福し、其と同時に聖寿を賀した古風を残して居るのである。玉は、呪言の神の呪言に対して、宮殿の精霊の示したほ[#「ほ」に傍線]なのである。だから大殿祭祝詞の御吹支乃玉《ミフキノタマ》の説明は、後代の合理と言うてよい。斎部の扮する呪言の神は、元別に時々来臨する者のあつたのが、絶えてからの代役で、其すら長い歴史を持つ様になつたのではないかと思ふ。
中臣氏のは其と違つて、水取りの本縁を述べた「中臣[#(ノ)]天[#(ツ)]神[#(ノ)]寿詞《ヨゴト》」を伝へて居た。此は氏々の寿詞の起原とも称すべきもので、尊者から卑者に誓《ウケ》は――信諾を約せ――しめる為の呪言が、卑位から高位に向けて発する第二義の呪言(寿詞)を分化し、――今一つ別の考へも立つ――繁栄させる風を導いた。極めて古い時代には、朝賀の賀正事《ヨゴト》には専ら此を奏上して、神界に君臣の分限が明らかだつた事始めを説いて、其時の如く今も忠勤を抽んでゝ天子に仕へ、其健康を保障しようとする事を誓うた。だから、氏々の人々も、此を各の家の聖職の本縁を代表する物と信じ、等しく拝跪して、其誓約の今も、家々にも現実の効果あるべきを示した。
中臣寿詞以外、氏々の賀正事《ヨゴト》――誄詞《シヌ
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