説経と浄瑠璃と」は中見出し]
念仏聖の多くは、放髪にして禿《カブロ》に断《キ》つたものである。剃つたものは、法師・陰陽師であつた。だが、禿《カブロ》即、童髪《ワラハガミ》にした「童子《ドウジ》」ばかりであつたわけではない。寺奴にも段階があつて、寺主に候ふ者・剃髪を許された者・寺中に住める者・境外|即《すなはち》門前或は可なり離れた地に置かれて居た者などがある。其最下級の者が、童子村の住民であつた。此階級の人々は、念仏宗の興立と共に、信仰の上にまで、宿因・業報だとばかり、あきらめさせられてゐた従来の教理から解放せられた。だから、高野は勿論、叡山其他寺々の童子は、昔から信仰に束縛のなかつた慣例から、浄土・一向・融通・時衆などに趨《おもむ》いた。
処が、平安末の念仏流行の時勢は、公家・武家にも多くの信者を出したと同時に、寺に居て、寺の宗義を奉じながら、一方新しく開基せられた念仏宗を信じた僧さへ出て来た。洛東|安居院《アグヰ》は、天台竹林院派の道場で著れてゐた。其処に居て、安居院《アグヰ》法師と称せられた聖覚《セイカク》は、天台五派の一流の重位に居ながら、法然上人の法弟となり、浄土宗の法統には、円光大師直門の重要な一人とせられて居る。此人は叡山流の説経伝統から見て大切な人だ。父はやはり説経の中興と言はれた程の澄憲《テウケン》(同じく安居院の法印)であり、信西入道には孫である。澄憲は其兄弟中に四人まで、平家物語の作者だと言はれる人を持つてゐる。さうして桜の命乞ひをした話や、鸚鵡返しの歌で名高い桜町中納言も、其兄弟の一人である。
私は経を読み、又説経する時に、琵琶を使うたのが平安朝の琵琶法師だと考へてゐる。平家物語の弾かれたのが、琵琶の叙事詩脈の伴奏に使はれた初めだとは思はない。其以前に「経を弾いた」事があつたと認められる。澄憲の説経には、歌論義・問答・頓作めいた処が讃へられた様に思はれる。平家物語もある点から見れば、説経である。其上、目前平家の亡んだ様子が、如何にも唱導の題材である。私は源氏物語の作為の動機にも、可なりの分量の唱導意識がある、と考へてゐるのである。
説経の材料は、既に「三宝絵詞」があり、今昔物語があつた。此等は、唱導の目的で集められた逸話集と見るべき処が多い。古くは霊異記、新しくは宝物集・撰集抄・沙石集などの逸話集は、やはり、かうした方面からも見ねばならぬ
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