其である。此方言らしい語が、新しい、印象的な、壮快で、性的で、近代的である服装や、ふるまひを表すのに、自由な情調を盛り上げた。かぶく[#「かぶく」に傍線]・かぶかう[#「かぶかう」に傍線]・かぶき[#「かぶき」に傍線]など言ふ変化の具つたのも、固定したふりう[#「ふりう」に傍線]よりは自在であつた。
此語が現れてから、かぶきぶり[#「かぶきぶり」に傍線]は段々内容を拡げて行つた。そして、恣《ほしいまま》にかぶき[#「かぶき」に傍線]まくつたのは、唱門師《シヨモジン》及び其中に身を投じた武家たちであつた。彼等は、かぶきぶり[#「かぶきぶり」に傍線]を発揮する為に、盛んに外出をし、歩くにも六方法師の練りぶり[#「練りぶり」に傍線]をまね、後に江戸の丹前ぶりを分化した六方で、道を濶歩して口論・喧嘩のあくたいぶり[#「あくたいぶり」に傍線]や、立ちあひぶり[#「立ちあひぶり」に傍線]に、理想的にかぶかう[#「かぶかう」に傍線]とした。名護屋山三郎の、友人と争うて死んだのも、かうしたかぶき[#「かぶき」に傍線]趣味に殉じたのである。
幸若の様に固定しない念仏の方は、演奏種目を幾らでも増すことが出来た。即かぶき男[#「かぶき男」に傍線]の動作を取り込んで、荒事ぶりを編み出し、念仏踊り及び旧来の神事舞・小唄舞を男舞にしたてゝ、をどり出した。流行語のかぶき[#「かぶき」に傍線]を繰り返して詠じたから、かぶきをどり[#「かぶきをどり」に傍線]の名が、直ちについた。或は、幸若の一派に「かぶき踊り」と言ふものが、既にあつたのかも知れぬ。だが、よく見ると、念仏踊りであつたゞけに、名古屋山三郎の亡霊現れて、お国の踊りを見て、妄執を霽《はら》して去ると言ふのは、やはり供養の形の念仏である。念仏踊りは、田楽の亜流であり、鎮花祭の踊りの末裔であるから、神社にも不都合はなかつた。即、田楽の異風なもので、腰鼓の代りに、叩き鉦を使ふだけが、目につく違ひである。念仏踊りの出来た初めには、古い名の田楽を称してゐたものもあつたらうと思ふ。又、後世まで、念仏でゐて、田楽を称したのもある位だ。
お国の「念仏踊り」は、旧来の物の外に、小唄舞を多くとり込んで発達した。田楽との距離の大きい「念仏踊り」の一つに違ひない。其上、よほど演芸化して、浮世じたてのものが多くなつて居た。

[#5字下げ]六 説経と浄瑠璃と[#「六
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