。かうした説経には、短篇と中篇とがあつて、長篇はなかつた。処が、中篇或は短篇の形式でありながら、長篇式の内容を備へたもの――源氏・平家の両物語は姑《しばら》く措いて――が出来た。其は安居院《アグヰ》(聖覚)作を伝へる「神道集」である。神道と言ふ語は、仏家から出た用語例が、正確に初めらしい。日本の神に関した古伝承をとつて、現世の苦患は、やがて当来の福因になる、と言ふ立場にあるもので、短篇ながら、皆ある人生を思はせる様な書き方のものが多い。巧みな作者とは言へぬが、深い憂ひと慰めとに満ちた書き方である。此は、聖覚作とは言ひにくいとしても、変改記録せられたのは、後小松院の頃だらう。さうして此が説経として、口に上つてゐたのは、もつと早かつたらうと思はれる。
説経はある処まで、白拍子と一つ道を歩んで来た。其間に、早く芸化し、舞踊をとり入れた曲舞・白拍子・延年舞は、実は、皆曲舞の分派である。白拍子・歌論義、其等から科白劇化した連事、其更に発達したのが宴曲である。説経は次第に、かうした声楽をとり込んで来た。
唱導を説経から仮りに区別をすれば、講式の一部分が独立して、其平易化した形をとるものが唱導であつて、法会・供養の際に多く行はれる様になつて居たらしい。其法養の趣旨を述べるのが表白《ヘウビヤク》である。此も唱導と言ふが、中心は此処にない。唯、表白は祭文化、宴曲化し、美辞や警句を陳《つら》ねるので、会衆に喜ばれた。今日の法養の目的によく似た事実を、天・震・日の三国に亘つて演説する。此が、読誦した経の衍儀《えんぎ》でもあり、其経の功徳に与らせる事にもなるのである。唱導の狭義の用例である。其上で形式的に、論義が行はれ、口語で問答もする。
室町以後の説経になると、題材が段々日本化し、国民情趣に叶ひ易くなつたと共に、演説種目が固定して、数が減つて行つた。講座の説経のみならず、祭会に利用せられて、仏神・社寺の本地や縁起を語る事に、讃歎の意義が出て来た。家々で行ふ時は、神寄せ・死霊の形にもなつて来た。此意味の説経は、其物語の部分だけを言ふのである。
琵琶法師にも、平安末からは、言ほぎ[#「言ほぎ」に傍線]や祓への職分が展《ひら》けて来た痕が見える。又寺の講師の説経の物語の部分を流用して、民間に唱導詞章を伝へ、又平易な経や偽経を弾くやうになつた。説経の芸術化は、琵琶法師より始まる。其為、後には寺の
前へ
次へ
全69ページ中59ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング