[#「あるじ」に傍線]と言ふのは原義ではない。あるじする人[#「あるじする人」に傍線]なるが故に言ふのである。あるじ[#「あるじ」に傍線]とは、饗應の事である。まれびと[#「まれびと」に傍線]を迎へて、あるじ[#「あるじ」に傍線]するから轉じて、主客を表す名詞の生じたのもおもしろい。此に暫く、あるじ[#「あるじ」に傍線]側の説明をして置く必要を感じる。
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たまだれの小甕《ヲガメ》を中に据ゑて、あるじ[#「あるじ」に傍線]はもや。さかなまぎに、さかなとりに、小淘綾《コヨロギ》の磯のわかめ刈り上げに(風俗)
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此等になると、あるじ[#「あるじ」に傍線]云々は、主人はと物色する心持ちか、馳走は何と待つ心か、兩樣にはたらく樣で、平安朝末までもあるじ[#「あるじ」に傍線]の用語例は動搖し、漸くあるじぶり[#「あるじぶり」に傍線]など言ふ風の傾きを生じかけて居る。我が國の記録には、第一義のまれびと[#「まれびと」に傍線]に關しては、敍述が乏しくして、痕跡の窺はれるものがあるに過ぎないが、此方面からでなくては説けない史實が多くある。
藤原氏の氏[#(ノ)]長者が持ち傳へたと言ふので、皇室の三種の神器に次ぐ樣な貴重な感情を起させた朱器・臺盤と言ふ重器は、何の爲に尊いのか、何をする物であつたか、私はまだ其説明を聞いたことがない。併し、朱器は朱の漆で塗つた盃であつたらうと言ふ事は、他の用例を見れば知れる。臺盤は食膳である。此が何の爲に、重器として傳へられる資格を持つのか。傳説では藤原冬嗣の時に新造した物と言ふ。氏[#(ノ)]長者の重器とするには、歴史淺いかの觀がある。私は恐らく使用に堪へなくなつた爲に、更めて新しく造つた事を言ふのではないかと思ふ。其にしても、食器が氏[#(ノ)]長者の標識となる理由は、私の此考へ方に由る外は、説明はつくまい。つまり氏[#(ノ)]長者としては、是非設けねばならぬあるじ[#「あるじ」に傍線]を執り行ふに必要なる品で、由緒ある物なのであらう。
單純に説明すれば、氏[#(ノ)]長者を繼ぐと、其披露の饗宴を催さねばならぬ。其時に名譽の歴史ある傳來品を用ゐると考へて見ることが出來る。眞に右から左へである。使ふ爲に讓られ、次に用ゐる時は、氏[#(ノ)]長者は自分の手から、他に移つて居ると言ふ事になると見るのである。此見地からしても、饗宴が如何に大切であり、氏[#(ノ)]長者披露のあるじ[#「あるじ」に傍線]が一世一代であるかゞ想像出來る。
而も、私は尚一般の推論を立てゝ居る。氏[#(ノ)]上・氏[#(ノ)]長者の稱は藤原氏のみの事ではない。藤原氏の勢力の陰に隱れて、他氏の氏[#(ノ)]上は問題にならなくなつたが、氏[#(ノ)]上披露の饗宴の器具なる故と言ふ處に力點を置いて見るならば、他氏の氏[#(ノ)]上にも、早くから此と似よりの事が言はれて居るはずである。其が一つも傳はらないのは、記録の湮滅と言ふよりも、藤原氏特有の重器と言ふ事に意味が生じたのではあるまいか。
藤原氏は宮廷神の最高級の神職であつた中臣から出て、政權に與る爲に、教權を大中臣氏に委ねた家柄である。だから、其家の重器としては、宮廷神の祭祀或は中臣の祖神の爲の祭祀に關聯した器具を持ち傳へる事はあるべき事である。教權は大中臣氏に繼がせても、氏[#(ノ)]長者の權威を保つ爲には、祖宗以來の重器としての祭器を傳へたことも想像出來る。私は宮廷の公祭、中臣の私祭に來り臨むまれびと[#「まれびと」に傍線]の爲のあるじまうけ[#「あるじまうけ」に傍線]の器具であつて、其爲に極めて貴重な物として繼承せられた事と思ふ。さうした朱器・臺盤も、果して平安朝に入つて幾度使はれたらうか。記録も其事を傳へない。藤原氏にとつて神聖な祕事であつたに違ひない。
此推論を強める一つの民間傳承がある。それは各地方に分布してゐる椀貸し塚・椀貸し穴の傳説である。多數の客を招くのに、木具のない時、ある穴の前に行つて、何人前の木具を貸し賜はれと書き付けをして還ると、翌日其だけの數が穴の前に出されてゐた。ところが、或時、狡猾な人間が一つをごまかした爲に、二度と出さなかつたと言ふ形式の話が、可なり廣く擴がつて行はれて居る。かうした物語の分布は、其處に久しい年月のあることを考へさせる。私は、まれびと[#「まれびと」に傍線]を迎ふるあるじ[#「あるじ」に傍線]の苦勞の幾代の印象が、かうした傳説となつたので、椀貸し塚から出した木具が皆塗り物であつた點が、とりわけ朱器・臺盤との脈絡を思はせるものがある。

      一〇 神來訪の時期

繰り返へして言ふ。我が國の古代には、人間の賓客の來ることを知らず、唯、神としてのまれびと[#「まれびと」に傍線]の來る事あるをのみ知つて居た
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