が、後世の宴會の風から測つた誤解である。正客即尊者は拜むべきものであつた。其故、手を拍つて拜したのである。
二つの引用文は天子に關したものであるが、拍手禮拜の儀は、天子に限らない。うたげ[#「うたげ」に傍線]は「拍ち上げ」の融合なることは、まづ疑ひはない。併し、宴はじまつて後の手拍子を斥《サ》すのでなく、宴に先だつての禮拜を言ふ語であつたのである。其が饗宴全體を現し、遂には饗宴の主要部と考へられる樣になつた酒宴を示す樣に移つて來たものと思はれる。後に言ふ朝覲行幸・おめでたごと[#「おめでたごと」に傍線]と同じ系統の壻入りをうちゃげ[#「うちゃげ」に傍線](宛て字|宇茶下《ウチヤゲ》)と美濃國で稱へてゐたと言ふのは、疑ひもなく拍上《ウタ》げである。併し、壻入りの宴會を斥《サ》すものでなく、壻が舅を禮拜する義から出てゐるのは疑ひがない。
後世、饗宴の風、其宴席の爲に正客を設け、名望ある長老を迎へる事を誇りとする樣になつたが、古代には尊者の爲の饗宴であつて、饗宴の爲の正客ではなかつたのである。だから、尊者は、饗宴の唯一の對象であり、中心であつた。他の列座の客人・宴席の飾り物・食膳の樣子・酒席の餘興などの起原に就ては、自ら説明する機會があるであらう。
尊者の「門入り」の今一つ古い式は、平安の宮廷に遺つて居た。大殿祭の日の明け方、神人たち群行《グンギヤウ》して延政門に訪れ、門の開かれるを待つて、宮廷の巫女なる御巫《ミカムコ》等を隨へて、主上日常起居の殿舍を祓うて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るのであつた。此神人――中臣・齋部の官人を尊者と稱することはせなかつたけれど、祓へをすました後、事に與つた人々は、それ/″\饗應せられて別れる定めであつた。かくて貴族の家々に中門《チユウモン》の構造が必須條件となり、中門廊に宿直人《トノヰビト》を置いて、主人の居處を守ることになる。平安中期以後の家屋は皆此樣式で、極めて尊い訪客は、中門から車を牽き入れて、寢殿の階に轅を卸すことが許されて居た。武家の時代になると、中門が塀重門と名稱・構造を變へて來たが、尚、普通には、母屋の前庭に出る門を中門《チユウモン》と稱へて來た。
田樂師《デンガクシ》の演奏種目の中、古くからあつて、今に傳へて居る重要な「中門口《チユウモングチ》」と言ふのは、此「門入り」の儀の藝術化したものなのであつた。田樂法
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