。記憶の方便と云ふ、大事な要件に不足があつた爲である。記録に憑ることの出來ぬ古代の文章が、散文の形をとるのは、時間的持續を考へない、當座用の日常會話の場合だけである。繰り返しの必要のない文章に限られて居た。ところが、古代生活に見えた文章の、繰り返しに憑つて、成文と同じ效果を持つたものが多いのは、事實である。律文を保存し、發達させた力は、此處にある。けれども、其は單に要求だけであつた。律文發生の原動力と言ふ事は出來ぬ。もつと自然な動機が、律文の發生を促したのである。私は、其を「かみごと」(神語)にあると信じて居る。
今一つ、似た問題がある。抒情詩・敍事詩成立の前後に就てゞある。合理論者は抒情詩の前出を主張する。異性の注意を惹く爲とする、極めて自然らしい戀愛動機説である。此考へは、雌雄の色や聲と同じ樣に、詩歌を見て居る。純生理的に、又、原始的に考へる常識論である。其上、發生時に於て既に、ある文學としての目的があつたらしく考へるからの間違ひである。律文の形式が、さうした目的に適する樣に、ある進歩を經てから出來て來た目的を、あまり先天的のものに見たのだ。
わが國にくり返された口頭の文章の最初は
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