ふ[#「さきはふ」に傍線]或はさちはふ[#「さちはふ」に傍線]と申してをります。所謂「言霊の幸《サキハ》ふ国」とは、言語の精霊が不思議な作用を表す、と言ふ事です。つまり、言葉の持つて居る意義通りの結果が、そこへ現れて来ると言ふ事が、言霊の幸ふと言ふ事です。つまり、さう言ふ事を考へて来るのは、やはり根本に、言葉の物を考へさせる力を考へ、更にそれからまう一歩、その言語の精霊の働きと言ふものを、考へて来たのです。つまり、我々の周囲《マハリ》にある物が、皆魂を持つてゐるやうに、我々の手に掴む事が出来ない、目に見る事も出来ないけれど、而も自己の口を働かしてゐる言葉に、精霊が潜んでゐるのだ、と言ふ風に考へた訣です。この、言霊の幸ふと言ふやうな事を言ひ出した時代は、日本の国でもさう古い時代とは思はれません。それに似た信仰は、古くからあつたに違ひないのですけれども、言霊の幸ふと言ふ言葉は、言葉の形から見れば新しい形です。少くとも、万葉集などゝ言ふ書物に書かれてゐる歌が、世間で歌はれて居た時代です。だから少くとも、奈良朝を溯る事そんなに古い時代に、起つた言葉だとは思はれません。けれども、それと同時に、言霊が不思議な働きをすると言ふ信仰は、それではそれ以前はなかつたかと言ふと、全然なかつたとは言ひ切る事は出来ません。けれども、我々が言霊の幸ふと言ふ言葉に依つて、考へる通りの信仰と言ふものはなかつたのです。言霊の幸ふと言ふ言葉に依つて、限界をつけ得る一つの信仰と言ふものは、奈良朝前、それ程遠くない時代に固定し、構成せられて、それがだん/\持伝へられて来たのです。而もそれが、だん/\意味が変化して行きます。ある時代の学者になりますと、言霊のさきはふ国と言ふ言葉を、日本の国は霊妙不可思議な言葉が行はれて居る国である、と解釈し、その言葉を讃美した言葉、日本の国の言葉がすぐれてゐて美しい事を賞める言葉だ、と言ふ風に解釈してをります。だから、かう言ふ日本には盛んに歌謡が起つたとか、こんなに立派な短歌と言ふやうな又長歌と言ふやうなものが出来た、と言ふ風に考へられてゐるのですけれども、この考へは、さう言ふ考へに至るまでに、自然と、変化を辿つてゐるのかも知れません。併し、我々の見るところでは、さうした学者の誤解が、ずつと後になつて、起つて来たのだと思ひます。
言霊の幸ふと言つたのと殆ど、同じ時代に、色々の言葉が出てをります。まあ、万葉集を中心として、まう少し古いものは、古事記・日本紀などゝ言ふ書物に、遺つてをります。併し、殆ど、同じ時代に出来た書物ですけれども、何と言つても、万葉集に記録してゐる言葉と、それから、その言葉の組合せとに依つて、含まれてゐる考へ方と言ふものを見ますと言ふと、万葉集のものは、古事記・日本紀のものよりも新しいんです。総べて、古事記・日本紀・万葉集などゝ言ふものに、書いてある事の時代の定め方、つまり、この御歌は雄略天皇がお作りになつたとか、この御歌は神武天皇がお作りになつたとか、この御歌は大国主命がお作りになつたとか、言ふやうなことは、総べて解き離して、自由にして考へるのが、本当なのです。つまり、言葉として扱ふ上に、自由にして考へなければ、到底何も訣りはしないのですけれども、大体先づ、其の位の目安で行つて良いと思ひます。
言霊の幸ふと言ふ言葉は、万葉集を中心とした言葉ですが、やはり、同じ時代に出来た言葉か、或はまう少し古いかも知れませんが、「天つ罪」「国つ罪」と言ふ言葉がございます。この天つ罪と言ふ言葉、国つ罪と言ふ言葉は、日本の古い神道では一番大切な言葉で、一番大事な言葉と言ふのはどの言葉か、と言はれると、必ず、昔の人は、天つ罪と言ふ言葉を挙げたと思ひます。近頃、筧と言ふ人が出て来て、「かむながらの道」と言ふ事を唱へまして、惟神《カムナガラ》と言ふ言葉が、非常に重大性重要性をおびて来ましたけれども、もつと天つ罪・国つ罪と言ふ言葉の方が、もとは皆よく知つてゐたでせう。中臣祓――大祓とも言ひますが――のうちに這入つてゐる、有力な件りでありますから。言葉の形から見ますと、天の罪・地上の罪と言ふ事になるんですけれども、私が若い時分に、柳田先生の所に通ひ始めた――通ひ始めるは可笑しいですね。通学ではないんですから(笑声)――その時分に、先生から問題として出されまして、「天つ罪と言ふものを君はどう思ふか」と言うてをられた事を覚えてをります。国つ罪と言ふ事が、地上の罪と言ふ言葉でございますならば、天つ罪と言ふ事は、天上の神の罪と言ふ事にならなければならない訣ですけれども、さう言ふ与へられた問題が、何時迄も釈《ト》けないで、憂鬱に頭にたまつてゐるんですね。人間はやはり、さう言ふ憂鬱さ、それが釈けないと言ふ憂鬱さがあつて、それが突然何かの機会に突当つて、湧然と飜然と訣つて来るのでせう。つまり、感情的な一つの解決、「悟り」ですね。多くまあその悟りに、科学的な衣を着せて、これは悟つたのではなしに、かう言ふ偉大な組織を持つた科学から、完全に出て来たのだ、と言ふやうな顔をする事になつてゐるのですけれども、根本はやはり、悟りでせうね。天つ罪と言ふ言葉を、先生に与へられたことが、ひんと[#「ひんと」に傍線]になつてゐると思ひますが、どうもその後、その事は忘れてしまつてをつたやうに思ひます。
万葉集に現れて来る天つ罪と言ふのは、祝詞などに出て来る天つ罪とは違ふのです。万葉集に「雨障常為公者《アマツヽミツネスルキミハ》 久堅乃《ヒサカタノ》 昨夜雨爾将懲鴨《キノフノアメニコリニケムカモ》」(巻四)と言ふ歌がありますが、この場合、あま[#「あま」に傍線]と言ふ言葉は降る雨なのです。つゝみ[#「つゝみ」に傍線]と言ふ事は、雨に対しての慎み、雨の物忌みですね。雨の降る時分の、或は雨に対する物忌み、と言ふ事を意味するらしいのです。雨が十日間も降つたら、十日間も私のところに通うて来ない積りですか、と言ふやうな場合ですね。女が、何故来なかつたかと言ふと、雨が降つたからだと言ふ風に言ひ抜けをする。それぢや雨が十日も二十日も降つたら来ない積りなんですか、と女が捻ぢ込んだ。さう言ふ意味に、あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]と言ふ言葉が使はれてをります。万葉に一つ、一つではありません、二つあつたと思ひます。
ところで併し、この「雨の慎み」と言ふあまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]と言ふ言葉が、天上の罪と言ふ事を意味するあまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]と言ふ言葉とは、別々の言葉か、別々の言葉でないか、それは訣らないのです。世の中には同じ形を備へてをりながら、全然別々な意味の言葉がございますね。併し、違ふ事を同じ様に言つた場合、人は聯想しますから、全然別な言葉を一つにしてをります。
いとほし[#「いとほし」に傍線]と言ふ言葉は、平安朝で有力になつたが、どうも、もとは「嫌だ」と言ふ事らしい。「厭ふ」と言ふ言葉を語根にしてをりまして、それを形容詞に活用させて、いとほし[#「いとほし」に傍線]と言ふんだが、どうも、嫌だと言ふ事に使つたのが第一義らしい。ところが、平安朝の物語になると、このいとほし[#「いとほし」に傍線]と言ふ言葉は、後の室町時代になつて盛んに出て来るいとし[#「いとし」に傍線]と言ふ言葉、我々の使つてゐるおいとしい[#「おいとしい」に傍線]と言ふ言葉、と同じ意味に、多く使つてゐる。つまり、いとほし[#「いとほし」に傍線]と言ふ形が、いたはし[#「いたはし」に傍線]と言ふ形から影響を受けて、そつちの方に引張られて行つた、つまり、いたむ[#「いたむ」に傍線]を語根にした言葉に惹かれて行つたのです。それで、同じ時代の言葉でも、いたはし[#「いたはし」に傍線]といとほし[#「いとほし」に傍線]と、同義語が並んでゐる訣です。この様に、いたはし[#「いたはし」に傍線]と言ふ様な意味に引張られて、いとし[#「いとし」に傍線]と言ふ意味に使はれる一方には、いとはし[#「いとはし」に傍線]と言ふ言葉と同じ様に嫌だと言ふ時にも使つてをるのです。けれどもしまひには、だん/\時代が進むと言ふと、いとはしい、嫌だと言ふ意味はなくなつてしまつて、第二義の方にずつと這入つて行つてしまふ。併し、平安朝で見ますと、第一義が嫌だと言ふ意味なのか、第二義か第三義か知りませんが、兎に角、引きずられてゐる言葉、外の方にかぶれて、引きずられて行つた言葉が、いとしい[#「いとしい」に傍線]と言ふやうな意味ですから、さうすると同じ言葉であるけれども、さう言ふ風に意味が変つて行くんです。ですから、どうもその間に調和を求めまして、嫌だと言ふ意味と、いとしい[#「いとしい」に傍線]と言ふ意味との中間を歩くやうなものが、物語や日記等に沢山出てゐる。それを我々が今日見ますと言ふと、いとしいとも釈けるし、嫌だ、嫌ひだとも釈けるのですけれども、昔の人はその間の考へ方と言ふものを、見つけてゐたんです。つまり、さう言ふ言葉が使はれてゐる時代が過ぎ去つて、忘れられてしまふと言ふと、もう、さう言ふことは考へられぬのと同じ事です。我々が書物を持たなくても、幸にその言葉の出来た時分に我々が生きてをつたら、さう言つた言葉ははつきりしてをりますね。
このうちでも、私共とそんなに年齢の変らないお方は御記憶でせう、譬へば、はいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉です。今ははいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉は賞める言葉ですね。今では、もだあん[#「もだあん」に傍線]・すまあと[#「すまあと」に傍線]・しいく[#「しいく」に傍線]などゝ言ふ言葉であらはしてゐて、はいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉は、使はなくなつたかも知れませんが、又私共もさう使つてはゐませんが、すまあと[#「すまあと」に傍線]とかもだあん[#「もだあん」に傍線]とか言ふ言葉は、我々の生活内容には余り這入つて来ない。それだけ貧弱な生活をしてゐるんだけれども、又それだけ安易な生活もしてゐる訣ですね。それで、はいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉は御存じの通り、只今でも生きてをられる竹越三叉さんや、先年亡くなられた望月小太郎さん、あの人々が洋行帰りで、高いからあ[#「からあ」に傍線]をつけて、きいろい声で演説をしたのを新聞記者が悪《にく》んだ。きざな奴だと、日本新聞ではいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉を言ひ出して――日本新聞で言ひ出したのでなく、宛て字を日本新聞でしだしたのかも知れません――兎に角新聞記者が、からあ[#「からあ」に傍線]の高い奴と言ふのではいから[#「はいから」に傍線]と言ふ名前をつけた。そして、鼻持ちのならないと言ふ意味の言葉として、日本新聞で「灰の殻」と宛て字をした。侮蔑しきつた宛て字ですね。今は一つも使ひませんが、その頃使はれてゐたはいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉は、襟が高いと言ふ意味のはい・からあ[#「はい・からあ」に傍線]を、「灰殻」と宛て字を書いてもいゝやうな、さう言ふ内容をもつて来てをつたのでせう。それで「灰の殻」として、しきりに使はれてをりましたが、その灰殻と言ふ記号をば飛越えて飛躍し、はいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉が、非常に使はれ行はれて来ました。さうしてそのはいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉も、だん/\良い内容を持つて来て、つまり、鼻持ちのならぬきざな奴、むしづの走る奴などゝ言ふ意味が、遂にはだん/\なくなつて来たのでせう。そして、我々が昔からもつてゐた考へ方を、又復活させて来たのです。
戦国の終りから江戸の始めにかけて申したあのかぶき[#「かぶき」に傍線]と言ふ言葉、それから六法《ロツパウ》、かんかつ[#「かんかつ」に傍線]などゝ、色々な言葉がありますね。その時代々々に依つて、少しづゝ意味は変つて来るけれども、兎に角、近代的で、乱暴で、而もえろちっく[#「えろちっく」に傍線]で、刺戟の強いものを表す言葉になつたのでせう。併し、時々さう言ふ考へだけが、型を落してしまつて浮動してゐる事があるんで
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