彙は動き易いものだと思ひます。柳田先生のお考へも近頃さうなつて来てゐるやうです。明治の初年この方、日本の国文学に対して、博言学などゝ言うた時代から、言語学を専攻する人々は、方言の扱ひに非常に大事をとり、非常に重苦しく考へて、はふつてあつた。そしてなんでも大仕掛けに積み上げてから学問をしようとした。ところが柳田先生がちよこ/\と出て来て、一遍に今までの方言研究をひつくりかへしてしまつたのです。方言はもとから研究しなければならぬ/\と喧しく言はれてゐますけれども、たつた一人、東条操さんと言ふ我々の友人が、長い間国語研究室に籠つてやつてゐられました。そして大仕掛けにしなければこの学問は出来ないと思つてゐた。さう言ふ訣で方言の研究が非常に遅れてゐた。どうしたらいゝか見透しがつかない様な状態だつたのですけれども、近頃殆ど、筋が通つて参りました。この上は方言の大語彙と言ふものが出来ればいゝ、と思はれる位になつたと思ひます。柳田先生の御計画では、大間知さんその他の人々と一緒になつて、農村とか山村とか漁村とかの中で、色々な条件を兼ね備へた村を選んで、人事の出来事を基礎として、言葉を集めて行く、と言ふ様な計画をなすつていらつしやるのですけれども、速くして貰はないと、若しものことがあつたら大変です。非常に緊急を要することゝ思ひます。尤も、我々が心配するより、先生は非常に早いのですから、そんなことを言つてる間に出来るかも知れません。
ところが、この方言に於ける流行と言ふことを、まう少し考へて見なければならぬと思ふが、方言が何処迄その地方の固有の方言かと言ふ事が言へるかと言ふ事ですが、非常に疑はしくなる。今迄の我々の仲間の考へでは、少くとも方言と言ふのだから、その土地の歴史とくつゝいた言葉、その土地と関聯する以前からあつた言葉、さう言ふ言葉が相当にあらうと言ふやうな、さう言ふほのかな予期があつたのです。今になつて考へて見ると、そんな予期は殆ど、覆りさうな状態で、たまに何かの事情で残つてゐるに過ぎない、と言ふ事が立証せられてゐる。この言葉はこの地方に千年前からあつた言葉だ、年数を問はなくとも、この言葉はこの土地の匂ひのある言葉だ、と証拠だてる事が出来るやうな言葉は到底なささうです。だから、流行が非常に烈しかつた事が立証されて来たので、これだけでも柳田先生の方言研究の結論になると思ふのです。
先生は或はその考へ方に多少反対なさるかも知れませんけれども、譬へば、なも[#「なも」に傍線]と言ふ言葉、えも[#「えも」に傍線]又はきゃあも[#「きゃあも」に傍線]と言ふ言葉など、我々は聞いてゐると甚だ、心苦しいやうな心持がしますけれども、併しこの地方にとつては、非常に厳密な事情で、この言葉をやめてもつと上品な言葉を言へと言はれたら、やはり遠慮してしまふでせう。
そしてなも[#「なも」に傍線]、えも[#「えも」に傍線]、きゃあも[#「きゃあも」に傍線]を保護しようと言ふ方が多いと思ふ。方言の強さはそこです。結局それが強まつて国語に対する愛と言ふ事になりますから、なにも国定教科書の、文部省の属官が作つたやうな文章、それに出て来る言葉を我々が使はなければならぬことはない筈です。文部省の文章を作る人はまう少しいゝ者が雇はれたらいゝと思ふ。ですから、何を見ても余りいゝやうな文章はありません。
なも[#「なも」に傍線]と言ふ言葉は既に研究した人があるけれども、我々から言へば、人に呼びかけるのになあ[#「なあ」に傍線]、もし[#「もし」に傍線]とかう言うたのが、なも[#「なも」に傍線]になつたのでせう。
だから地方に依ると、なあもし[#「なあもし」に傍線]がなし[#「なし」に傍線]となつたりのし[#「のし」に傍線]となつたりする、色々な形があります。この系統は日本全国に拡つてをります。そして皆、形が変つてをります。のうし[#「のうし」に傍線]と言ふのがあるかと思ふと、なあも[#「なあも」に傍線]と言ふのがある、なあも[#「なあも」に傍線]があるかと思ふとねえも[#「ねえも」に傍線]がある。偶々離れた処になも[#「なも」に傍線]があつたりしてゐます。のし[#「のし」に傍線]となも[#「なも」に傍線]と比べてみると不思議に思はれますけれども、これは必ず、ある時期に、なあもし[#「なあもし」に傍線]が流行して来たものなのでせう。今よく流行つてゐる、「ねえ、あなた」と言ふのと同じことですが、昔の人は流行語と言ふものに権威を認めてゐる。だから、刺戟がなくなつても、すぐに捨てる様な事はしないで、何百年も守らうとしてゐる。そしてなも[#「なも」に傍線]と言ふやうな言葉を拵へるのでせう。それから類推して、えも[#「えも」に傍線]などゝ言ふ言葉を拵へた上に、きゃあも[#「きゃあも」に傍線]などゝ
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