つた為か、どう言ふ関係か知らぬが、どうも五七、五七と言ふ調子が出て来なかつたらしい。憶良の気風として、さうしたのかも知れませんが、その間に間違ひが出て来てゐるのです。
さうして平安朝になると、平安朝の特徴と申しますか、文章が著しく口語的になつて来ます。口語らしい文脈がまじつて来るのです。それで、割合に見識のある昔の学者でも――今のでもですが――平安朝の文章は口語文だと思つてゐる人があります。そんな事はありません。ちやんと書き分けてある。大体は文語の文章です。そしてその間に会話は会話の言葉になつてゐる。その区別がちやんと書き分けてあります。で、散文の地の文章、口語でない地の文章は、すつかり違ひます。事実見ていつてもはつきり違ふのです。併し、我々はあと先を見ても、あれ程自由に表現した文章がない為に、又、注意しないで読むと同じに見える為に、我々が見ると言ふと、平安朝のは口語だらうと、かう思ふのです。即ち、文法的に同じはたらきをする言葉でも、違つた言葉が使つてあります。文章の型を定めてゐるものが違ふので、助動詞なんかゞ違ふのです。さうして散文でも定つた散文がありますが、それが平安朝になつて定つたものだとは、私は思ひません。やはり以前からつなぎがあつての事に違ひない。つなぎは一時的に切れてをつても、何等かの連続があつたのだらうと想像せられます。それですから、平安朝の文章でも、我々は訣ると思つて解釈してゐるから訣つてゐるのですけれども、本当に見ると、やはり訣りません。訣らぬところがあります。併し、訣らぬ事が我々の考へ方で考へて行くと、やはり訣つて来るのです。
時間も余りありませんので、短く簡単に進めますから、例を引いて申します。一寸散文では適切な例を引く事が出来ませんけれども、あの竹取物語だつて訣らぬ処が沢山ある。誰が見ても本当に見て解釈出来ない処がある。伊勢物語にしても、やはり訣らぬ処があるのです。ところが、訣らぬ処は、必ず、なんか昔の歌の伝へられてゐる処です。昔あつた歌の一部を修正して、伝へてゐる処があるのです。さうすると、歌の形が変つて来る訣ですが、その歌に合ふやうに、その歌の出来た事情を拵へて来る。諺と同じ事です。「おもひあらば、葎の宿に、ねもしなん。ひじきものには、袖をしつゝも」と言ふ歌が、伊勢物語の始めの方にあります。「思ひあらば寝もしなん」はをかしい、「思ひなくは
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