てある。つまり、飜訳の出来るものは皆古いものにしてゐます。ですから、さう言ふ言葉を以て、この言葉があつて、而もこれが奈良朝の言葉だから、従つてこの文章は奈良朝に出来たものだ、と言ふやうな事を言ふのは間違ひです。譬へば、平安朝以後にある処のまじ[#「まじ」に傍線]と言ふ言葉、「あるまじ」、「行くまじ」、「すまじ」と言ふまじ[#「まじ」に傍線]は、奈良朝ならばましゞ[#「ましゞ」に傍線]といふ形でせう。万葉集にもあります。宣命にもあります。宣命のは最も、極端に、ましゞき[#「ましゞき」に傍線]と活用させてあります。こんな活用は少しをかしいですけれども、かう言ふものが宣命にかなりあるのです。これは、皆奈良朝に生きてゐた言葉だと言ふ風には、断定出来ない。奈良朝で既に死んだ言葉もございますし、死んだ言葉をば使つてゐるのかも知れません。我々が「大きい」と言ふ言葉を擬古文で書けば、「大きゝもの」と書いてしまひさうです。さう言ふ誤りはあるのです。ですから、ましゞき[#「ましゞき」に傍線]と言ふのは、誤つた近代的の活用かも知れません。「大きゝ」と言ふ様な、現代の文章で誤つて活用さして拵へたものと、同じものかも知れません。さう言ふものは、必ずある様に思ひます。
大伴家持と言ふ人がをります。昔の歌が非常に好きで、昔の歌を集め、万葉集の成立には関係の深い人ですが、この人は不思議な人で、非常に近代的な気持を持つた人なのです。奈良朝の文学ばかりでなしに、支那の文学にまで触れてをりますから、非常にこまかい神経を持つた人です。だから、昔の言葉だけではいけない事があれば、昔の言葉を自分勝手に活用させてゐる。で、家持の言葉には誤用があるのです。譬へば、古い言葉の活用を間違へ、意味を間違へ或は発音を間違へて写してゐると言ふ様な事が出てゐる。そんな事を見ますと、万葉にあるから正しいと言つてゐる人の顔が見たいと思ふ位です。万葉の中でも長歌は殆どまう、擬古文です。殊に、奈良朝の万葉の長歌になりますと、殆ど総て擬古文です。山上憶良などと言ふ人は、非常に長歌を作つて、色々な社会主義みたいな理論を述べた人でありますけれども、併し、形式は擬古文です。家持が後になつて犯す様な過ちを、憶良が先に犯してゐる。憶良と言ふ人は変な人でどうしてもあの、五七、五七、と言ふ調子が出て来ないらしい。支那まで留学して来た人だし、教育が違
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