ころから、起つてゐるのでせう。今は遊戯と言ふと、主に子供を考へますけれども、子供に限りません。この宗教的練習が、つまり、宴会の型になつたりするのでせう。お酒を飲んだり、歌を歌つたりすると言ふことは、やはり一つのお祭りの練習です。その練習と言ふ道をとつて、厳粛であるべきお祭りが、我々の日常生活の少し華《はなやか》な時、即ち、晴れの場合に持ち来される。子供の遊戯になるともつと著しいのです。なんでもかんでも皆、一つの宗教的な儀礼の練習をしてゐるのです。だから、その練習だつて、昔は時が定つてをつたに違ひない。時期と言ふものがあつたのですけれども、面白い遊びは面白いからいつでもやる。そこで、自然に社会的な制裁があつて、特別の場合の他は出来ないことになつた。如何に面白い遊びでも、いつでもやれば、かう言ふ事になるでせう。だから、遊戯と言ふものには、必ず、一種の神秘感を持つてゐたものでせう。我々でも、なんかさう言ふ感じを、この子供の遊びを回想してみると感じる訣です。譬へば、盆の前に昔の女の子供達が「小町踊り」と言ふ事をした。棚機《タナバタ》から盆へかけて、棚機と盆との極く短い間、女の子が列を組んで歩いて、太鼓を叩いて町を練つて歩いたのです。小町踊りと名前こそ言はないけれども、私共も生れた大阪の町でやつて参りました。お盆より前に止めてしまふのですけれども、我々は夏中やつてをりました。それは一つの練習だと言ふ事が訣るのです。それが遊戯になるのです。つまり、遊戯と言ふものは、昔の儀礼の退歩なのですが、或意味からすると、儀礼をば保存してゐるもの、儀礼をば保存しようとしてゐると言ふ形だ、と言ふ観方もある訣です。
只今の場合では言語遊戯ですが、この、国語の遊戯に関するものも、非常に種類がありまして、これもなか/\申し切れませんが、話を簡単に致します為に、少し聯絡が切れ勝ちになりますが、先づ諺と言ふものから申し上げたいと存じます。
諺と言ふものは、只今考へてゐるのとは非常に違ふのです。つまり、諺と言ふものは、一番さしさはりのない言ひ方では、「言ひ慣はし」と言ふ事に過ぎない。ところが我々の一部でも、諺と言へば、なんか社会的訓諭の意味を持つた短い言葉だと言ふ風に言はれてをりますが、日本の諺の歴史を見ると言ふと、そんな事はなくなつてしまふ。諺と言ふ言葉は、これも語源が訣つた方がいゝのですけれど、訣るや
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