すね。それが、或言葉が出て来ると言ふと、その中に這入つて来るんでせう。さう言ふとなんか、非常に抽象的な話し方になつて、具合が悪いですが、兎に角、さうしてはいから[#「はいから」に傍線]と言ふ言葉を使つてゐるうちに、昔の考へ方が復活して来る訣です。つまり、昔のかぶき[#「かぶき」に傍線]と言ふ言葉と、非常に似た内容を持つて来たんですね。さう言ふ風に、言葉と言ふものはだん/\変遷して、このいとほし[#「いとほし」に傍線]と言ふ言葉と、いたはし[#「いたはし」に傍線]と言ふ言葉とが歩み寄ると、その中間の意味と言ふものが出来て来る。それが今日の我々になると、どう訳して良いか訳すべき言葉がない。ごく、無感興に、訓詁解釈を行ふ人は、いとほし[#「いとほし」に傍線]と言ふ言葉は、大抵、いとしい[#「いとしい」に傍線]と言ふ意味に訳して、どうも為様《シヤウ》のない時にはいとはし[#「いとはし」に傍線]と言ふやうな、嫌だ、嫌ひだと言ふやうに訳す。それよりほか方法がなくなつてしまつてゐる。
さう言ふ風に、あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]と言ふ言葉もやはり同じ言葉か、違つた言葉か訣らない。訣らないけれども、どうもだん/\考へて見ると言ふと、違つた言葉でもなささうです。つまり、五月の霖雨期には、日本の農村では非常に物忌みが厳粛でして、その時には、男女は結婚しないばかりか、夫婦も一緒に寝ない、さう言ふ風になつてをります。これは今でもあるところがあるんでせう。一寸はつきり申すことは出来ませんが、兎に角、それは事実なのです。さうすると、あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]と言ふ事が、単なる雨の慎みだと言ふ風に万葉集で訳してをるのは悪い。万葉集の注意深い註釈者は、さう言ふ風に訳しては足りないと言ふ事が訣ります。つまり、あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]と言ふのは霖雨期の時分の慎み、物忌みで、だから、どの女でも男でも、逢ふ事が出来なかつた。すると、「雨障常為公者《アマツヽミツネスルキミハ》」と言ふ事がよく訣つて来ます。ところが、さう言ふ民俗に行き当る以前に、我々が考へてをつた事は、それだけの根拠はないけれども、農村のこの霖雨期と言ふものは非常に重大な時であつて、その時には、農村に神様が来てゐる。それから同時に神様の降《クダ》つて来る時、即ち、或は、刈上げ祭りの時、或は田の代掻きをする時分、或は
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