狐の田舎わたらひ
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鑰《カギ》取り

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一山|茶吉尼《ダキニ》化

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)神韻※[#「水/(水+水)」、第3水準1−86−86]渺

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)中[#(ノ)]宮[#(ノ)]命婦
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藤の森が男で、稲荷が女であると言ふ事は、よく聞いた話である。後の社の鑰《カギ》取りとも、奏者とも言ふべき狐を、命婦と言うたことも、神にあやかつての性的称呼と見るべきで、後三条の延久三年、雌雄両狐に命婦の名を授けられたなど言ふ話は、こじつけとは言へ、あまりに不細工な出来である。
今日の稲荷社では、なぜか、命婦を一社と考へたがる傾きが見える様だが、色葉字類抄に中[#(ノ)]宮[#(ノ)]命婦とあるのは、上下の社にも、命婦のあつたことを、暗示してゐると見るのが、順当な解釈らしく思はれる。又、事実に於ても、今も上社に命婦社があり、奥[#(ノ)]命婦と言ふ名目まで、同社に伝はる「天正の記」と言ふ物には、見えてゐるさうである。明月記・後鳥羽院御記・業資王記などの、稲荷詣での記事の抜き書きで見ても、必しも一社とは、見られぬ命婦社の名が、散らばつてゐる。
身柄はさのみよくもなくて、世馴れた顔にさかしらだつて後宮に立ち交る古女房みやうぶのおもと[#「みやうぶのおもと」に傍線]の名は、此滑稽味を持つた眷属殿には、事実、うつてつけのあざ名である。
此奏者の筈の命婦社の勢力が侮られぬものとなり、一山|荼吉尼《ダキニ》化の傾向を示したのは、後期王朝中葉からの流行と見える。かの天部の呪法の影響であらう。冒涜の嫌ひはあるが、稲荷、東寺のくされ縁は、此処にも見えるのである。狐媚盛んに世に行はれ、福利の神と迄なり上つたのは、荼吉尼法の功徳を説いた、東寺真言の手が見える様に思はれる。
軒端を貸した秦の氏神が、母屋までもとられて、山を降つたものとすれば、客人神《マラウド》は、蓋《けだし》、其後、命婦の斡旋によつて、愈《いよいよ》、動かぬ家あるじとなられた事であらう。
武家の世になつては、命婦・専女《タウメ》の古御達《フルゴタチ》が、公家程には顧み
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