られずなつても、尚様々の霊異を現した事であらう。
此山の眷属の為に、呪はしかつたことは、応仁二年の兵火である。一山を焼き尽して、御達《ゴタチ》の住みかの古穴も、安んじ難い火宅となつた。
倖にも、其前年六月に、山籠りした世阿弥の弟子の禅竹は、ゆくりなくも命婦ら一部の、漂浪の痕を辿るべき書き物(禅竹文正応仁記)を残して置いてくれた。文章は神韻※[#「水/(水+水)」、第3水準1−86−86]渺たるものであるが、当方に入り用な処だけをとると、上社・中社とも、命婦社があり、上の命婦は尾薄《ヲサキ》明神、中のは黒尾と言うて、二つながら、石をば神体とした。尾薄社の本地は聖天で「是則伊勢にてまします」とある。石を神体と言ふ事、狂言の「石神」などを見ても知れる如く、石其物を拝むと言ふより、石に仮托した動物の霊魂を崇めてゐる、と考へる方がよさゝうである。其に又、石其物が命婦であるといふのは、如何に望夫石論者の中山氏でも、忌避せられるところであらう。夢覚めて狐の尾が手に止つたのを、験《ゲン》あるしるし[#「しるし」に傍点]としたと言ふ民譚は、王朝末に尠からず見える。狐とし言へば、直に、尾を聯想した時代に生れたのが、此尾薄・黒尾の命婦たちなのであらう。尾が裂けてゐたからなのなら、他動にをさき[#「をさき」に傍線]とは言はぬ訣で、屡《しばしば》、人の手に尾を裂いて残すなど言ふ考へを、含めてゐるのではあるまいか。
応仁の焼亡の後、尾薄命婦の社も、或は黒尾も此まで同様、祠は建てられなくなつて、神体の石ばかりが残つて居り、再、稲荷の社が興隆した頃には、名も存在も、人から忘れ去られて、さしもの命婦たちも、荼吉尼を呪《ジユ》する験者に誘はれて、旅の空にさすらひ出で、鄙のすまひに衰へては、験者の末流を汲む輩の手さきに使はれて、官|奪《メ》された野狐となり、いづな[#「いづな」に傍線]の輩に伍して、思はぬ迷惑を人々にかけたことであらう。今日尚、をさきもち[#「をさきもち」に傍線]・をさき筋[#「をさき筋」に傍線]など言ふ家々の祖先には、或は、是非なく「山出で」をした命婦たちと、合体してゐた験者のひこ[#「ひこ」に傍線]のやしやご[#「やしやご」に傍線]の、其又ひこ[#「ひこ」に傍線]など言ふてあひ[#「てあひ」に傍点]が、あるのかも知れぬ。



底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平
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