ゐると言ふ伝承は、意外な程広く、多く語られてゐる。其は、成年戒を受けた時の印象から出た言ひ習しらしい。
又一方、神人たる資格の有無は、男精に特殊な形を備へて生れるものとも考へられたかも知れない。其しるし[#「しるし」に傍線]の特徴を言ふ根本の理由は、成年戒を受けないで、神人の資格なしに死んだ者は、死者の霊の到り集つてゐる彼岸の理想国、常世に行く事が出来ない。成年戒を授かつた者は、神となれる神聖なる神格を受けたのである。受戒期間は山に籠つて、花かづらをする。其は女もした。
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はね蘰《カヅラ》 今する妹をうら若み、いざ、率《イザ》川の音のさやけさ(万葉巻七)
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此蘰の花草が、神人となつたしるし[#「しるし」に傍線]で、兼ねて一般成年男子の神事奉仕の際の斎みのしるし[#「しるし」に傍線]となるものである。だから受戒しない人の葬式には、花を摘んで、棺や頭陀袋に入れる風の、処々にある訣が知れる。此花蘰が、支那伝承の端午の信仰と合体して、菖蒲鉢巻が、少年の頭に纏はれる風を生じたのであらう。
       雨づゝみ・長雨斎み
万葉にある「雨づゝみ」「長雨斎《ナガメイ》み」など言ふ語は、雨季の五月の居籠りを言ふので、雨の為に出られずに、こもつてゐる義ではない。
八重山島のある村では、尻の亀の尾の辺に、特徴を与へるのが、成年戒を授けたしるし[#「しるし」に傍線]とする。兄若い衆に当る者が二人で、受戒者の臀を下に手足を持つて吊りあげて、ある聖なる石の上に、尾※[#「骨+低のつくり」、第3水準1−94−21]骨を打ちつける。かうした風もあると思へば、割礼を施す以外に、神秘の条件に叶うたらしく感ぜられる。
神としての資格を完全に得る為、物斎《モノイ》みを家に居てする間の禁欲生活を遂げさせる為、しるし[#「しるし」に傍線]を曲げて縛つて置きなどした信仰伝承があつたかと思ふ。其が諺化し、伝承化して氏子の特徴の言ひ習しを生んだらしい。古代人は、はかま[#「はかま」に傍線]は穿いてゐたが、ふもだし[#「ふもだし」に傍線]は常用しなかつたらしい。ふもだし[#「ふもだし」に傍線]の、生き物を繋ぐ用途から、男精を縛る布の名にもしたのであらう。
我々の間に段々行はれなくなつて来たふんどし[#「ふんどし」に傍線]は、実は物忌みの間、貞操帯の様な役をした物であらう。どう言ふ風にするか想像出来ぬが、しるし[#「しるし」に傍線]なる物を堅く結んであつたと見える。其を解きほぐしてやるのは長老の権力で、さなぶり[#「さなぶり」に傍線]後の一夜だけであつたらう。次の期の神事の物忌みまでは、褌《ハカマ》をはく事を許したものと見てよからう。
其故、若い衆入りに、ふんどし[#「ふんどし」に傍線]を緊めて、初めて若衆宿に挨拶に行くもあり、氏神へ詣るのもあるのだ。神人としての物忌み初めのしきたり[#「しきたり」に傍線]であつたのだ。此が段々受戒者の誇りとなつて、常にも自ら緊めて、自由に解きもし、ふもだし[#「ふもだし」に傍線]としての厳しい束縛を段々緩く、自由にして行つたのだ。
かうしたふもだし[#「ふもだし」に傍線]は、若い衆の常用品となつて来た。新受戒者は、殊に厳重な束縛から、始めて一夜《ヒトヨ》づまの居る、女の家に入る。此記憶が、長く印象を、当然神人の一員となるべき氏子の男、其しるしに加へられる神秘の制約、其処の折り曲げられるしきたり[#「しきたり」に傍線]、此条々が、かうした氏子の特徴を考へさせた、村々の長い信仰生活が思はれるのである。
たぶさき[#「たぶさき」に傍線]は、古い語だが、ふもだし[#「ふもだし」に傍線]とは、別物である。緊めるものではなく、腹と背との間を越えて、余りを小さいきれ[#「きれ」に傍線]の様に垂れてゐたものらしい。
たぶさく[#「たぶさく」に傍線]といふ動詞は、日本紀にも見えてゐる。さうした物の挟み様や、たぐり上げ方を言ふ語の、名詞化した物であらう。はかま[#「はかま」に傍線]は日常にもつける物で、たぶさき[#「たぶさき」に傍線]は、神事に著ける品で、奴隷としての服従を示すものらしい。極端な服従を示す場合には、此を著けて、相手の前に出て誓うたらしく、其が段々、人々にも使はれる様になつたのであらう。
ふもだし[#「ふもだし」に傍線]が物忌み衣の一つで、男子専用の物であつた事は、段々証拠がある。此を緊めた裸身の上から、簑を著て、田遊び・夜田植ゑ、其他の神事に、神の一員として出たものらしい。
成年戒授与の儀は、元、初春に行はれたらしいが、後には、色々の日どりを、村々で定めたらしい。その中で、節分の夜に行はれた形式が、殊に著しい。だが、四月・五月の頃、田植ゑ前に授戒して、長雨斎《ナガメイ》みを経た後、田遊びや、五月夜《サヨ》の遊行に出させたらしいのである。
女の授戒も、四月上旬から中旬に亘つて――平安朝からも見えた――村々でせられた。山ごもりに、成女戒を受け、同時に早処女《サヲトメ》に出る資格を得た。
男のも、恐らく此前後に行はれ、授戒の済んだ者は、やはり山ごもりを長く続けさせられたものと思ふ。此が、貌《かほ》つきを替へて、大峰山上でする御嶽精進にもなつた。此は、平安中期にも既に見えた事だ。とりわけ、新達《シンダチ》など俗に謂ふ初登山の若者は、先達から苦しめられた。
石を堆《つ》んで人を埋めた石こつみ[#「石こつみ」に傍線]の話、謡曲に残る谷行の作法などは、成年戒の苦しみの物語化したものである。天狗が胯《また》を裂くといふ信仰も、此に関係がある様だ。さうして、山を出ると、精進落しと言ふが、大峰入りの数を重ねた年長者が、新達《シンダチ》を大和・紀州の平原の田舎色町に連れ出して、女に会う道を知らせる。こんなしきたり[#「しきたり」に傍線]は、伊勢参宮の形で行ふ地方もある。国々には、此意味の初参詣が、霊山・聖地に行はれて居もし、居た事は、近頃も多い。
端午が、漢人伝来の節の斎みであるのに、恰《あたか》も当る五月の早苗時の信仰を持つて行つたのであつた。
ながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]は、皐月の神となる物忌みだと言うた。而も、成年戒に関係深い事を述べておいた。
万葉では、意義合理化せられてゐるが、女にあはぬ長い間の禁欲生活といふ義を含んでゐた証拠を一つあげる。
       世に経るながめ[#「ながめ」に傍線]
古事記にある「長目を経しめたまふ」と言ふ語が、其である。主上の、快からぬ貢女に施された冷遇法であつた。
媾を断つて久しい事が、ながめ[#「ながめ」に傍線]を言ふと説くか、欲情生活の空虚から来る、つれ/″\な憂鬱《ナガメ》を思ひ知らしめた事で、ながめ[#「ながめ」に傍線]は、
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花の色は 移りにけりな。いたづらに 我が身世に経る ながめ[#「ながめ」に傍線]せしまに(古今巻二)
起きもせず 寝もせで 夜を明しては、春の物とて ながめ[#「ながめ」に傍線]暮しつ(古今巻十三)
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などのながめ[#「ながめ」に傍線]だと言ふかすれば、今の処正しい説と見られるだらう。平安朝のながめ[#「ながめ」に傍線]は、禁欲或は、人に会ふを得ぬ不満から起る、わびしさ、やるせなさを用語例としてゐる。だが「経《フ》る」は現状のまゝ、時の経つ事になる。
ながめ[#「ながめ」に傍線]は、ながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]から出て固定した語で、五月の「雨期虔《アマヅヽ》み」といふ語がある以上、ながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]は、霖雨期に当つての、禁欲・不外出のつれ/″\を思ひ沁む、成年男子の毎年の経験から来て、ながめ[#「ながめ」に傍線]と略しても訣る程、広く久しく用ゐられて居た様である。
古事記に、ながめ[#「ながめ」に傍線]の略形を使うてゐるのに、万葉にながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]を使うたのは、年代の上に、異な考へを持つかも知れぬ。が、此語の出た万葉の竹取翁の長歌などは、奈良朝初期、或は藤原朝の儒者の手になつたものと考へてもよいのだから、古事記の此条の原文が、口唱し始められた時代よりは遅れて居るかも知れぬ。強ちに万葉の方の語を新しく拗曲した、変態のものとは言へぬ。
藤原・奈良の間には、ながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]とも、ながめ[#「ながめ」に傍線]とも言うて居たのであらう。それが平安期に入つてながめ[#「ながめ」に傍線]ばかりを使ひ、眺め[#「眺め」に傍線]の字を宛てるながめ[#「ながめ」に傍線]と混同して、ながむ[#「ながむ」に傍線]・ながむる[#「ながむる」に傍線]などゝも言ふ様になつたものだらう。
ながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]は、五月の雨期の忌みが、飛鳥・藤原朝の頃から、農村の重大事となつて来て、其長期の禁欲生活の印象が、此語及び、略形や、其成語などに、媾事遮断《ツマサカリ》の苦痛や、焦慮・空虚感を表す様に導いたと見られる。
田植ゑ時の村の男の神人生活、五月頃行はれた成年戒の事情から、氏子の身の特徴の言ひ習しへ説き進んで、農村の五月前からの物忌みの、最、長いものとなつた時代の俤を写して見た。農村の細民まで、一般に服した斎忌だから、とりわけて著しくなつたのだ。
他の季節・祭事の物忌みは、村・国の長上者や、神官に限るのが多いから、それ程目立たないのである。けれども、春の祭りに臨まれるまでの主上の冬ごもりなどは、古代に溯る程、久しく忍び難い程の静止・精進の生活を経させられねばならなかつたのである。
       天つ罪
天つゝみ[#「天つゝみ」に傍線]の説明伝説は、記・紀時代の物語には、すさのを[#「すさのを」に傍線]の天上における行為を起原としてゐる。だが、此が皆田植ゑの行事と関係があり、五月夜《サヨ》の事になり、簑笠を言ふ処を見ると、昔からの説は、古代論理を考へなさ過ぎた為ではないかと思はれる。
即、雨つゝみ[#「雨つゝみ」に傍線]の言語情調が変つて、天つ罪となつた。後世人には、雨つゝみ[#「雨つゝみ」に傍線]とするのは、天上におけるすさのを[#「すさのを」に傍線]の罪が、此地上にも亦、天つ罪の行はれる時だからと考へたのである。
すさのを[#「すさのを」に傍線]の天つ罪[#「天つ罪」に傍線]を行うた後、贖《あがな》ひとして、田を元の如くする様を、神人として演ずるのだ、といふ風に解する時代が、あつたに違ひない。わたしは古来難義の「天つ罪」は「霖斎《アマツヽ》み」の伝承から、語義まで変つたものと信じてゐる。



底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
   1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店
   1929(昭和4)年4月25日発行
初出:「日光 第五巻第一・二号」
   1927(昭和2)年9月、12月
※底本の題名の下に書かれている「昭和二年九・十二月「日光」第五巻第一・二号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年8月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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