おもしろみ」に傍線]し、新草を目にして心をどりする生活のまだまる/\伝説化しない時代であつたればこそ、直に流れこんで来る内容を持つた歌なのだ。仄《ほの》かな軽い目くばせで相手の心を合点する。さうした柔らいだ理会から来てゐる無拘泥なのである。「今日はな焼きそ」と「……な刈りそね」とを両方から支柱にかつて、はじめて訣る程度のかすかなものになつてゐる。
此歌、又、何となくある恋情を暗喩するらしい様な気もする。古草と若草とを、老若の女又は男と見て、其若いのはよいが老いたのも棄て難い。かういつた類の解釈は、幾らでも試みられる。併し、どうも野を焼くと言ふ譬喩が、適当にはまる境涯が思はれない。
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ふゆごもり 春の大野をやく人は、やき飽かぬかも。我が心やく(万葉集巻七)
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などに比べると、譬喩と言ふべきものでもなさゝうだ。それよりもやはり、気分に深く入つてゐるので、今日からは、やゝ象徴的な印象さへ受ける。新草をいつくしんだり、ふる草をも共にあはれんだりする詩人式の情愛を寓する歌では、決してない。野を焼くことが、まだ実世界の経済生活に関係深かつた時代なのである。さればこそ、若い享楽の壊される事の不満を述べたのである。それ程無風流な生活行事であつた。
枕詞・序歌に使ひ、又其行事を非難する物はあるが、此中から美を見出す風流はまだなかつたのである。草刈る事を非難する表現に馴れた人々である。野を焼くを悪《にく》む発想に到らないはずはない。「今日はな焼きそ」の一種叙事詩化した以前、既に幾多の怨み歌が出てゐたに違ひない。この歌は、強ひて言へば、寒気に閉ぢられた冬は去つて、春の喜びに充ちてゐる。村を囲む山へかけての、曠野の往き来も自由になつた。娯しい野山の行き会ひを思ふ時、もう野山に火がつけられてゐる。暫くは又、草木の伸びるのを待たなければならない。どうにもならぬ落胆である。
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武蔵野は 今日は 勿《ナ》焼きそ。わか草の嫩芽《ツマ》もこもれり、冬草まじり
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こんな形にして見ると、発想展開の順序に見当がつく。「……と、予期《アラマ》したる野をば勿焼きそ。ふる草に新草まじり、生ふべくなれるを」――こんなにして見ると、大分はつきりして来る。若草・紫草・菅其他に、恋愛の聯想のつき纏うてゐるのも、此側に一つの大きな原因があるのだ。
三
草木を伐り、野を焼くを嫌ふ原因は、まだ外にもある様だ。
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山城の久世の社に 草な手折《タヲ》りそ。しが時と、立ち栄ゆとも、草なたをりそ(万葉巻七)
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此は禁忌である。かうした神の標《シメ》野を犯す事を忌むことの影響もある。其に今一つ考へられるのは、木を伐り出す時の「山口祭り」の様に、野を占めて焼く時の呪詞があつたらうといふ事だ。御県《ミアガタ》の神の祭りに似て、尚すこし畏怖の情の深い、野の神の祭りが行はれたのであらう。のづち[#「のづち」に傍線]は野雷《ノヅチ》で、野の蛇神である。かやのひめ[#「かやのひめ」に傍線]は葺草場の神であらう。其外色々ゐる神に対つてする呪詞が、必、あつて忘却せられたのであらう。
かうした野の神々を鎮圧するのが、村に対する山の神の務めである。さうした呪詞の断篇化し、又は、拗曲したのが、更に時代生活に合理化せられて行つた。草木を伐り、野を焼くのを忌むといふに適した恋愛境遇に一致させて来たのらしい。さなくても、田畠・移動耕地の精霊は草を刈りつめられ、火に焚かれて、神となる風であつたから、此行事に関するあらゆる記憶も、変化して、こんな類型を作る一因となつた事であらう。
右の順序を逆に言へば、古代邑落の男女媾会の一方法が知れる。野山を刈り焚いて新神を作つた風。其と対等の原因として、精霊の所有なる未開拓地を墾《ひら》く方式。此が双方から歩みよつて、叙事詩では、大国主及びやまとたける[#「やまとたける」に傍線]の焼け野の難の話になつた。其呪詞の一部が「さねさし相摸《サガム》の小野《ヲヌ》に燃ゆる火の、炎中《ホナカ》に立ちて、とひし君はも」(記)となり、或は「萱な刈りそね」「野をば勿《ナ》焼きそ」などゝ、夜の訪れ以外に、昼も野山で会ふといふ結婚法と相互に影響し合うて、実生活の上の顕著な様式を形づくつた。
更に三転して、草野にこもる男女と、焼き囲む野火との聯想が、小説的になつて、民謡に栄え、更に文学にまでも入る事になつたのである。万葉では既にさうである。だから実生活とばかりも言へないのである。誇張と空想と芸術化とが加つてゐるのだ。必しも、歌が生活の反映であつたとは言へない。
すべて伝承の詞曲の上の事を、悉く実在した事と見る事は出来ない。多くは、詞曲にのみある事であつたり、其が反対に、実生活に移されたり、実生活様式と合一したりした物なる事を考へねばならぬ。殊に、其生活から、庶民の生活を抜き出す事の出来ぬ、高級神人・巫女の上に限つた伝承である事は、勿論である。伝承に出る至上階級の行動も、神・人の区別がない。だから、人の世の事と思へば、神話であつたりする。草刈り・野焼きの歌なども、すべて経験から出てゐるとは言へない。歌論の上の慣例を追うたに止る事の多い事を思ふべきだ。
此歌の捉へ処のない様に見えるのは、或は既に、神の真言化して考へられ、呪文とせられてゐたのかも知れぬ。
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天なる ひめ菅原の茅な刈りそね。みなのわた かぐろき髪に 芥し着くも(万葉巻七)
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譬へば、此歌なども、叙事詩から断篇化した歌らしい。軽[#(ノ)]大郎女を憐んだ歌だらうと言ふ人もある程だ。処が、此旋頭歌は、呪文に使はれたものと見る方がよさゝうだ。すると「おもしろき」も野焼きの火に過ちなき様になど言ふ原義を没した用途を持つてゐたのかも知れぬ。
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妹なろが つかふ川門《カハト》のさゝら荻《ヲギ》 あしとひと言《コト》 語りよらしも(万葉巻十四)
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東歌では此なども、おなじ種類らしく思へる。
さて、ふり返つて、此歌の謡はれ、又記録せられた理由を纏めよう。文学的な繊細さで、知られた物と見るか、性生活の期待を豊かに感じさせる為か、或は又、其意義から退化して、呪文として用ゐられて来たものか。かうして見ると、最初の問題は、大分はつきりして来た。
東歌の悉くが、採集者や、万葉集編纂者に、必しも訣つてゐたものでない事は、明らかである。だから、此方面、即鑑賞法を問題にする必要はない。東人等が、ともに興味を持ち得たであらうか。其等の追窮を試みたいのである。
今の処私は、やはり第二説である。「わが立ち隠るべき、おもしろの野を焼くな。野はふる草まじり新草生ひて、寝好《ネヨ》げに見ゆるを」と、かう説いて姑《しばら》く私の考への、更に熟するのを待ちたいのである。
四
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雨障《アマヅヽミ》常する君は、久方のきのふの雨に、懲りにけむかも(万葉巻四)
笠なしと 人にはいひて、雨乍見《アマヅヽミ》 とまりし君が 容儀《スガタ》し おもほゆ(万葉巻十一)
……とぶとりの 飛鳥壮《アスカヲトコ》が、霖禁《ナガメイミ》 縫ひし黒沓 さしはきて、庭にたゝずみ……(万葉巻十六、竹取翁の歌)
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田あそび
此等の創作歌及び民謡は「田遊び」の行事に触れてゐる。田遊び全体、春まつりの一部であつたものが、をり/\にくり返されるのであつた。後代は、五月田植ゑの際に行ふのを本位とする様だ。併し、初春に一年中の田の行事や作がらを祝福する為、劇的な動作や歌舞を行ふのが、春田打ちであつた。だが、此は、演者は神の資格でするのだから、第二義以下の祭りではない。――祭りの語義と、用語例推移については、別のをりに書く――神が呪詞を宣する第一義の祭りの一部分であつても、全体ではない。だから、田遊び(歌舞《アソビ》)ではあつても、田祭りとは言へないのだ。此田遊びが、呪師《ノロンジ》出の法体芸人の手に移つて演芸化したものが、田楽《デンガク》であつた。農村々々によつて、村人自身行ふ処と、田楽師を迎へる処とが出来て来た。春の田遊びが、五月の田植ゑの時に移し行はれて盛んになるのは、如何にも、実感に適するからである。
田植ゑに、田遊びを行ふのは、春田打ちに臨んだ神で、やはり初春と一つの積りで来て行つたのが、古い形だ。だから、田遊びを行ふ人は、異形を装ひ、他界の霊物のしるし[#「しるし」に傍線]なる簑を着て、顔は笠其外の物で隠してゐる。此に対して、五月処女《サヲトメ》(そおとめ[#「そおとめ」に傍線]と発音する)は、巫女の資格を持つ。神人とおなじく、頭髪を深く、布・帯の類で包み、其上に赭土・白粉――後は多く此方になる――を塗つて、身をやつした。
赭土を「さに」といふ。その「さ」は五月の行事に関係の多い「さ」であらう。さ月・五月夜・五月蠅・さ苗・さをとめ[#「さをとめ」に傍線]の類の「さ」である。水口祭りと言ふのが、田植ゑ行事の一つにあるのは、遠処の水の神に水を乞ひ初め、山の花を挿して、稲の花の象徴とする行事で、此花の様に稲の咲き実る様にと、日中に、神の贄飯をまつるのである。
水口と言ふのは、後に考へた水かけの口[#「口」に傍点]では、元なかつた。水の灌けはじめで、口あけ[#「口あけ」に傍線]の義だ。山口祭りの口[#「口」に傍点]も、山の上り口の神をまつるものと見てゐるが、山の木の伐り出し初めにする行事、即其々の山の斧入れに当つて、物をまつられる神なのであつた。
田植ゑの後、夜、さなぶり[#「さなぶり」に傍線]を行ふのが普通である。早苗饗応だと言ふ説の当否はとにかく、田植ゑに臨んだ神々を、賓客として開いた饗宴の遺風なのは、事実である。植ゑ初めから、植ゑ了ふまでの間は、群神は村に居て、夜行する故、此間は居籠りを守つてゐる。夜の、外出はきびしく忌んだのである。神逗留の間はまつり[#「まつり」に傍線]と言ふには当らない。神が能動的にふるまひ、人は水口祭り以外には、神に向つてする事がないからである。
さなぶり[#「さなぶり」に傍線]の饗宴は、果して古くからあつたものであらうか。神の行ふべき行事は、悉く田遊びで尽きてゐるのだから、此さなぶり[#「さなぶり」に傍線]は、田植ゑに必須条件ではなかつたらしい。唯この夜、家々の男は悉く外に出て、処女或は巫女の資格ある女が、協同作業《ユヒ》の斎屋《イミヤ》――或は個々の家――に待ち申して、此|客人《マレビト》をもてなす事が行はれたらしい。此が、陰陽道の五月の端午の節供に習合せられたのであつた。世間で男の節供と言ひながら、此夜に限つて、家々を女の家と言ひ習して来た――女殺油地獄の中――のは、男の物忌みで家に居ぬ日だつたからである。殊に少青年の行動は戒めねばならぬ様であつた。
端午の節の斎戒は、男が守らねばならなかつた為、男の節供として、人形《ヒトガタ》を据ゑて穢邪を移し、又ゆきあひまつり[#「ゆきあひまつり」に傍線](交叉期の祭り)の考へから出た邪鬼――夜行神の恐れが転じて――の来襲を防ぐ備へをする日になつた。併し、五月幟の類は、一つは田植ゑに来訪する神を迎へる招《ヲ》ぎ代《シロ》なる青山(標の山の類)の変化でもあり、又神人たるべき若者の、神意によつて、指された住む家の目あてになるものらしい。つまりは、斎居《イモヰ》の宿のしるし[#「しるし」に傍線]から拡つたのである。
我が国では、ある時代から、多く四五月の間を、成年戒・成女戒を村の青年処女に授ける時期とする様になつたらしい。成年戒を授かつた後の男子は、忌み日として外に集つて居籠るのではなく、神人の一人として、群行神の一人に扮して、女の家に訪れて行く資格を得るのである。
男になつたしるし[#「しるし」に傍線]
古代には、成年戒を授かるのは、初春よりも、此五月の夜に多かつたらしい。中部・西部諸国に亘つてある或神の氏子の男のしるしの曲つて
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