うたて……あり」と嫌なものにつけて使つてくる。さういふ傾向の言葉にかゝる習慣がついて来ると、こんどはうたて[#「うたて」に傍線]だけで、嫌なことを表す様になる。だから「うたて……あり」と其空間に挿入すべき言葉が、だん/\動いて来て結局、形容詞になつて了ふのである。
之と同じく、万葉集には非常によく用ゐられて、亡びて了つた語にもとな[#「もとな」に傍線]がある。之も訣らぬ言葉の一つで、心許ないなどと訳すのは、一番素樸な解釈であるが、之も結局はひどい[#「ひどい」に傍線]といふ意味の語らしく、「ひどい……」といふ後《アト》の語を省いて了ふ。係る言葉を落して使つてゐるので、之だけをいくら解剖してみても訣る筈はない。「まなかひにもとなかゝりて安寝《ヤスイ》しなさぬ」(万葉巻五)は、安眠が出来ぬ、あゝひどいことだ、と言つてゐるので、副詞だけで、動詞の意味までを含んで了つてゐる用法である。
之が平安朝の言葉の一の特徴である。我々の知つてゐる平安朝の文学は、ごく狭い社会に於いて、話したり読んだりしてゐたので、話してゐる言葉は、幾分くらしっく[#「くらしっく」に傍線]に書いて居り、訣つて居る範囲が狭いのだから、略しても皆に訣るのである。京都の貴族の中にも、始中終宮廷に出入りしてゐる様な人にだけ、訣る範囲で整理して使つてゐる。だから略語がいくらも行はれてゆくのだ。言葉をいくらも造る代りには、一方にいくらでも忘れてゆく。一種の失語症で、譬へば、もの[#「もの」に傍線]といふやうな言葉を、無暗に使つて居る。尤、それで訣つたのでもあらう。とにかく、出来るだけ言葉を省かうとする一種の努力――といふよりは、懶惰な力が漲つて居る。其を考へなければ、平安朝の物語類に出て来るうたゝ[#「うたゝ」に傍線]は訣らない。こゝまで考へてくれば、始めて、宣長が平安朝式にうたてあり[#「うたてあり」に傍線]と訓んだのも、幾分は助かつてくる。つまり、ひどい[#「ひどい」に傍線]と解釈すれば訣るのである。
平安朝に、幾らでも出て来る語に今一つあさまし[#「あさまし」に傍線]といふ語。源氏物語の語彙を、嘗て集めてみようとした事があつたが、其を止めさせて了つたのは、このあさまし[#「あさまし」に傍線]があんまり多くて、切りがないからであつた。之も大抵は、近代の意味で情けないとか、人の事を非難して諦めの気持を持つたといふ言葉に感じてゐる。それでも、物語日記類をよく読む人は、それでは飽き足りぬので、私どもも之を、たまげる[#「たまげる」に傍線]などと訳して居る。宣長もさう言つてゐる様だ。つまり、あさまし[#「あさまし」に傍線]は自分の方でも浅いことを自覚する意味である。あさむ[#「あさむ」に傍線]の形容詞化したものだ。副詞にもあさはか[#「あさはか」に傍線](→あさむ)などがあるが、自分ながら自分の心の狭いのに驚くといふ言葉である。だからたまげる[#「たまげる」に傍線]と訳さなければ、気持が出ない。
[#ここから2字下げ]
「かゝる人も世に出でおはするものなりけりと、あさましきまで目をおどろかし給ふ」
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ](源氏、桐壺)
之を近代的に解釈すれば、「情けないと思ふ程、慎しみもなく愕いた」と、なるが、そんな解釈が誤つて居ることは言ふまでもない。たまげる程に目を見開いた、といふことでなければならぬ。又、夕顔の段にも、
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「人の気配いとあさましくやはらかにおほどきて」
[#ここで字下げ終わり]
之も亦、情けない程に、ぐにや/\してゐて、といふことではない。その容子がたまげる[#「たまげる」に傍線]程に、やは/\として鷹揚であるといふのである。更に、もつといゝ意味にあさまし[#「あさまし」に傍線]のついてゐる例もある。ともかく、「あさましく……なり」といふ形であつたものが簡略化されて来る訣だから、結局、言葉を省く窮極には、「あさましく美しく」、「あさましく清らに」といふ様な文句でも、皆、あさまし[#「あさまし」に傍線]で代表して表現して了ふことになる。さうして、どんな内容でも、皆たまげる[#「たまげる」に傍線]と訳して了つてゐる。あさまし[#「あさまし」に傍線]に続く動詞・形容詞を省いて了ふので、表面上の形としても、あさまし[#「あさまし」に傍線]といふ終止形で、どんな意味をも表し、その中で、あゝ嫌だといふ気持を持つた意味の方が勝を占めてくると、後世の様になつて了ふ訣である。源氏でも、その意味の場合もないことはないが、その時分のあさまし[#「あさまし」に傍線]は今のあさまし[#「あさまし」に傍線]そのまゝではない。「あさましく……なり」の形で、中間を省き、あさまし[#「あさまし」に傍線]で、その省いたものを表はして居る点は、先のうたて[#「うたて」に傍線]の場合と同じである。それだけで、すべての心の過程を示すのである。結局、あさまし[#「あさまし」に傍線]は後世は非常に一方に傾いた言葉になる。あさましく[#「あさましく」に傍線]に軽蔑の意味を感じて来るのは、あさ[#「あさ」に傍線]の一語によるのだと思ふ。
九
もつと訣り易い例に、わりなし[#「わりなし」に傍線]がある。是はことわりなし[#「ことわりなし」に傍線]と同じで、説明する事が出来ぬ、名状し難い、言ひ表はし得ない、などの意に使つて居るが、之も亦、もとは「わりなく……なり」といふのを、わりなし[#「わりなし」に傍線]の一句で代表させて来たのだ。説明の出来ぬのは、無暗やたらなのであるから、わりなし[#「わりなし」に傍線]と言へば直ぐに、無暗やたらだ、の意になつて来る。で始めからわりなし[#「わりなし」に傍線]が独立してゐた言葉の様に考へるのは誤りである。無理な、自分勝手な使ひ方は出来ぬ訣だけれども、皆が使つてゐる中には自分達の聯想を出来るだけ入れて、お終ひには割る事が出来ぬなどと感じてもくる。或は亦、いたく[#「いたく」に傍線]といふ例がある。「いたく……なり」といふ副詞があつて、その経験を積んで来ると、中間を省いて、いたしや[#「いたしや」に傍線]などとだけ言ふ様になる。「いたく……である」の略であるが、いたし[#「いたし」に傍線]が、ほゞ其基礎になつてゐるので、いたしや[#「いたしや」に傍線]に戻つてくる訣だ。形容詞の活用では、終止形の成立は却て遅く、最初は、副詞の形のく[#「く」に傍線]・しく[#「しく」に傍線]が出て、之から次第に発達したものらしい。我々の持つて居る形容詞が、何時の間にか、今の活用形を持つたものだけを、さう言ふやうになつて、形も整頓されて了つた。併し、あり[#「あり」に傍線]を含んだ「とあり・くあり・たり・なり・かり」などを形容詞と称してゐる人もあつて、之は便宜上さう呼んでゐる訣であるが、意味に於いては変りない。即ち、昔の形容詞では、副詞の形で、其下にあり[#「あり」に傍線]があり、其中間に言葉を挿んで来るもの、「――く……あり」の形が、完全な形容詞の形であつたのだ。たゞ其中間に挿入する言葉は複雑なものを入れて来る。かやうにして、形容詞句が出来るのだが、之が日本の形容詞の始まり、やがて、く[#「く」に傍線]・しく[#「しく」に傍線]の形に、終止形のし[#「し」に傍線]が発達して来るのだ。
「――く……あり」の形は、夙くから用意せられてゐて、其中間に、言葉を幾つも挿んでくるので、そのうちに「――く」の部分だけが独立して副詞となり、あり[#「あり」に傍線]を捨てゝ、中間に挿入する所に出来て来るのが、即ち形容詞である。だから、なり[#「なり」に傍線]・たり[#「たり」に傍線]・かり[#「かり」に傍線]を形容詞の中へ入れようと言ふのにも、根拠だけはある訣だ。
譬へば、万葉集に用語例の多いなくに[#「なくに」に傍線]である。万葉集ではかなり人気のある語で、万葉集以前には、そんなに流行したとも思はれず、又其以後も、段々すたれて行つて了ふが、平安朝ではまだ少し残つて居る。之は否定の助動詞ぬ[#「ぬ」に傍線]にく[#「く」に傍線]をつけてなく[#「なく」に傍線]と体言化させ、其に副詞語尾のに[#「に」に傍線]をつけたもので(譬へば、思はぬ→思はなく→思はなくに)、正確な使ひ方は、之も其形は残つてゐないが「思はなくにあり」であつたらう。其あり[#「あり」に傍線]を省いて、皆なくに[#「なくに」に傍線]で済まして居る。切つて了ふと言ひ残しがある訣だから、反動的な詠歎的な気持が出て来る。だから、之をないのに[#「ないのに」に傍線]と訳すのは邪道ではなくとも、まづい解釈で、ないことよ[#「ないことよ」に傍線]と言ふのが本道である。既に万葉集でも、それがあつて、「おのがゆく道は行かずて、呼ばなくに、門に到りぬ……」(巻九)などは、「呼ばないのに」と訳すより仕方のない使ひ方だ。門に到りぬに続いてゐるのだから、「呼ばないことよ」と切れる筈のところではない。他にも同じやうな例があつて、とにかく、集中でもう変化を見せて居る。
かういふ変化は、を[#「を」に傍線]にも見られる。本来感動の助詞であるが、逆の場合の感動、即ち、のに[#「のに」に傍線]といふべき所へ、を[#「を」に傍線]をつけて「……であるにも拘らず……」とはね返る様な意味の使ひ方をして居り、場合によると「ゆく人をば[#「をば」に傍線]恋しく思ふ」といふ風な、客語の語尾にも使つて来て居るのがある。とにかく、言葉といふものは、切れてゐると思ふと、次の語に続いてゐて、感じでゆく、といふ習慣のあるものだ。なくに[#「なくに」に傍線]もあり[#「あり」に傍線]を省いてゐる言葉と訣つてゐるのに、「……であるのに、それにも拘らず」といふ意味に用ゐて来る。
ね[#「ね」に傍線]といふ語も之と同じで、「人こそ知らね[#「知らね」に傍線]かわく間もなし」などは、この法としては、知らね[#「知らね」に傍線]で切れる筈であるのに、下の語に続いて居る。
かういふ現象は、長い間の習慣の結果である。万葉集のなくに[#「なくに」に傍線]の中に、「……なのに」などと訳さねばならない用法があるのは、意義の変化、聯想の変化であつて、少くとも此変化だけは知つておかねばならぬ。平安朝に入つては、もうあり[#「あり」に傍線]の下についてゐた事を忘れて了つて、悉くが、「……なのに」の使ひ方になつて了ふ。
かうした例は、まだ多くあるが、もう一つあげてみると、例へば我々が、ゆゝし[#「ゆゝし」に傍線]などと言つてゐる言葉は、本道はゆゝし[#「ゆゝし」に傍線]だけで完全な意味があるのではない。少くとも奈良朝からあるが、これは宗教的な言葉で、言ふことも慎しまれるといふ気持である。全体に、副詞は抽象的で概念的なものが多いが、此言葉も非常に抽象的な言葉だから、具体的な意味を持つた語を中に入れなければ完全にはならないのだ。一旦入れたものを、使ひ慣れて来るうちには又、省いて、其語だけで、代表させるやうになるから、自然に独立して来る。「ぞつとする程……である」と言ふ意味の言葉が変化して、ゆゝし[#「ゆゝし」に傍線]とだけ言へば「ぞつとする程に……」といふ意味になつてくる。其が更に、「ぞつとする程にいけない[#「いけない」に傍点]」意味をも分派してゆくのである。
この経路と事情とは、あはれ[#「あはれ」に傍線]の語に就いても言へると思ふ。あはれ[#「あはれ」に傍線]などは、伝説の上では高天原以来の語であると信じて居るが、恐らくさうでもあるまい。一体、日本の言語だけから考へても、日本の民族の歴史は、短くはないと思はれる。この言語の長さが、果してこの国土に移り住んでからのものであるか、或はその以前の国土に居つた時からの続きであるかは訣らぬが、ともかくも、言語だけを見ても、紀元年数などよりは遥に古いといふ感じがする。其はともかくとして、あはれ[#「あはれ」に傍線]は果して始めから色々な内容を持つてゐたかどうか。恐らく当初は、感動の語として単純なものであつたのを、
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