#(ツ)]神のをす物[#「をす物」に傍点]を作る国、をし物[#「をし物」に傍点]をお作りになる国である。此意味とをす国[#「をす国」に傍線]といふ語とでは大分相違がある。後には更に分化して、「夜のをす国」などと言つて、治める意味の敬語に解して了つてゐる。とにかく原意は天の神のおあがりになる食べ物を作る国であつて、其を簡単にをす国[#「をす国」に傍線]と言ふのは、言葉の上の大きい飛躍――思想の上の脱略があるのだ。其を考へねば、古代語は訣らない。
それが、形式になると、もつとよく訣る。祝詞には「みこともち」と使つて居り、此用法はみこと[#「みこと」に傍線]の語原と同一である。紀にも例は多く出てくるが、要するに、尊いお方の命令を伝達する人がみこともち[#「みこともち」に傍線]である。みこと[#「みこと」に傍線]をお出しになるのは、神がもとであるから、最初のみこともち[#「みこともち」に傍線]は、天の命令で此土地に出て来られた天孫すめみま[#「すめみま」に傍線]であらせられる。之が後まで残つて居り乍ら、低い方面にばかりみこともち[#「みこともち」に傍線]の語が残つて行き、高い方面ではもち[#「もち」に傍線]が夙く消えて了つた。天子の御ことをすめらみこと[#「すめらみこと」に傍線]と申上げるのは、すめらみこともち[#「すめらみこともち」に傍線]の略である。すめら[#「すめら」に傍線]は絶対的尊敬の語で、之も後には天子に関することにだけ固定する。がとにかく、此みこと[#「みこと」に傍線]が単に尊い人に使ふといふだけの意になると、だん/\下つて来て、貴族の家でも母のみこと[#「母のみこと」に傍線]、兄のみこと[#「兄のみこと」に傍線]などと使つてくる。之等は形式だけの尊敬である。かうした略語は非常に多いと思はねばならぬ。

大体、古代の書物では、言葉の興味といふものが、其書物によつて違つてゐる。記・紀・万葉・風土記など、それ/″\に、其伝承してゐる語彙の関係か、言葉の好みが違つてゐる様だ。我々でも慣れてくれば、之は古事記の言葉、之は万葉の言葉といふ風なことが感ぜられて来る程である。こゝに例に採つて見たいうたて[#「うたて」に傍線]などは、我々の普通の考へでは、平凡な感じのする言葉であるが、記にも万葉にも出てくる。古事記には二ヶ所出て来る様で、古訓には二ヶ所ともさう訓んでゐるけれども、正しくうたて[#「うたて」に傍線]と訓まねばならぬところは一ヶ所だと思ふ。其は下巻穴穂[#(ノ)]宮の段に、大長谷[#(ノ)]王が、市辺之忍歯王を誘つて近江へ狩にゆかれた時、忍歯王が翌朝早く、大長谷[#(ノ)]王の仮宮においでになつた事に就いて、其侍臣達が大長谷[#(ノ)]王に御注意申上げる言葉の中に、
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侍[#二]其大長谷王之御所[#一]人等白、宇多弖物云王子故、応[#レ]慎亦宜[#レ]堅[#二]御身[#一](安康記)
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「うたて物云ふ王なれば」といふのは、忍歯王の御性格を申上げた言葉である。平安朝の知識で解けば、「あのお方はうとましくも物を言ふお方だから」といふことになる。つまり、「うたてくも[#「うたてくも」に傍点]物言ふ」と解くのであるが、之でいゝかどうかは問題だ。もう一ヶ所は神代巻、天照大神と素戔嗚尊とのうけひ[#「うけひ」に傍線]の所で、すさのを[#「すさのを」に傍点]が勝さびに暴れなさる条「猶あしきこと止まずてうたてあり」とある。此うたてあり[#「うたてあり」に傍線]の訓は実に巧妙であるが、どうも疑はしい訓み方だ。素戔嗚尊の悪いことが止まずに、といふのだから、うたてあり[#「うたてあり」に傍線]と訓むより仕方がないところかも知れぬが、我々の感じでは、どうも此訓は平安朝風で、奈良朝にこんな訓み方があつたかは疑問であらう。古事記は出来るだけ古い匂ひを出して訓まなければならぬ。此一語が、古くは無かつたとは言はぬが、奈良朝などに出る例ではうたて[#「うたて」に傍線]で、之ならば万葉にも例が多く、うたてあり[#「うたてあり」に傍線]といふ言ひ方は出て来ない。之はたつた一つの例で、他に用例がないが、既に説いた通りで、一つだけ残つて居ることに不思議はない。ともかく此語は、歌の上には出て来ない。万葉集に、譬へば、
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若月《ミカヅキ》のさやにも見えず、雲がくり、見まくぞほしき宇多手|比日《コノゴロ》(巻十一、二四六四)
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三日月ではないが、はつきりと見えぬ。だから三日月の雲隠れてゐるやうに見たいものだ、と言ひ切つて置いて、此頃、情けない気がすると言つて居る。情けないことよ、この頃は、と言ふのだ。又、
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何時はなも、恋ひずありとはあらねども、得田直《ウタテ》此の頃恋のしげしも(巻十二、二八七七)
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どんな時でも、恋ひ焦れないでゐるといふやうな時はないけれども、あゝ情けない、この数日は恋ひ心で一ぱいになつて了つてゐる、といふ意味である。併し、かう解することが、既に平安朝のうたて[#「うたて」に傍線]に慣れて了つてゐるからかも知れぬ。平安朝の解釈では、うたて[#「うたて」に傍線]を其意味に解いて差支へない。此時分は、他にうたてし[#「うたてし」に傍線]・うたてく[#「うたてく」に傍線](→うたてき)などが出て来る時代である。うたて[#「うたて」に傍線]は近代には色々の形が出てゐるが、昔は整つてゐない。古い所ではうたてあり[#「うたてあり」に傍線]と言ひ、之がうたてし[#「うたてし」に傍線]に代つて来たのである。ともかくも万葉集の歌を、かういふ風に解いて了ふのは、問題であらう。我々の解釈は常に、自分に近い時代の意義を以てしてゐる。つまり現在の意義を、昔の語にあてはめてゆくといふ解き方で、之はどうしても間違ひだと思ふ。万葉集で、そんな意味に使つてゐたか否かは問題である。平安朝と同じ意味に使ふ為には、必ず其間に変化がある筈だからである。
一方にはうたゝあり[#「うたゝあり」に傍線]がある。うたて[#「うたて」に傍線]とうたゝ[#「うたゝ」に傍線]とは同じだといふ気がするが、既に転といふ字をうたゝ[#「うたゝ」に傍線]と訓んで居る。転をうたゝ[#「うたゝ」に傍線]と訓む理由のあつた時代がある。宣長の訓は誤りではないであらうが、もう少し考へた方がよかつた、といふ気がするのは其意味に於いてだ。字鏡では漸の字を、さう訓んで居り、状態が転じて、いよ/\甚だしくなつてゆくことをうたゝ[#「うたゝ」に傍線]と言つた、といふことだけは訣る。だから訓み方は誤りではないが、細かい点に違ふところがある。とにかく、どうにもかうにも訣らぬ様になつたといふ感じをうたゝ[#「うたゝ」に傍線]と言つて居る。平安朝の例で言ふと、
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思ふことなけれどぬれぬ。我が袖は うたゝある野べの萩の露かな(後拾遺 能因法師)
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之は普通のうたてあり[#「うたてあり」に傍線]の意味では解されない。「物思ひも無いのに袖がぬれた。どう考へても袖のぬれたのが訣らぬ、萩の露よ。」といふので、つまり、ひどい状態は事実だけれども、だん/\進行して行つた点は卒業して了つて居る。たゞひどい、といふ事だ。之で考へると、大抵のうたゝ[#「うたゝ」に傍線]はひどいといふことらしいのである。素戔嗚尊の所でも、嫌なこと、いけない事があつたといふ意味で、さう訓んだのであらうと思ふが、それなら、うたゝあり[#「うたゝあり」に傍線]と訓んだ方が真実に近い。どん/\悪いことをして、どうにもかうにも手におへなくなつて了つた、といふ進行の意味を持つてゐると解して、うたゝあり[#「うたゝあり」に傍線]と訓む方が適切だと思ふ。大長谷王の方の例では、嫌なことを言ふ人だから、といふのは、災ひになる事を言ふ人だといふ意味だが、さう解していゝかどうかは問題である。我々は解釈する以上は、万葉集は万葉集風に、古事記は其を書いた人の思つたであらう風に解きたいものだ。でこゝも、どうもひどい事をいふ人で、といふ位に簡単に解して置いていゝかと思ふ。

       八

今一つ考へておかねばならぬことは、日本文の表現法では、昔から副詞の下に言葉を省くのである。万葉集の様な律文になると、之が一層はつきりするが、「うたて……ある」といふところを省いて居る。譬へば、今の例でも、「うたてかたましく物言ふ王なれば」即ち、非常にぐろてすく[#「ぐろてすく」に傍点]な恐ろしい事を言はれる王だから、と言ふ様なことを言つたものに違ひないと思ふ。万葉集に、かうした手法の類例があるのだから、古事記にも無い訣はない。三日月の歌にしても、先に解いた様に、あゝ嫌だ、うとましいといふことではないのかも知れぬ。「何時はなも」の歌になると、少くとも、「恋のしげしも」をうたて[#「うたて」に傍線]が形容して居る。此「うたて此の頃恋のしげしも」を略して言ふと「うたて此の頃」になつて了ふ。類型で始中終、繰返してゐるうちには、又あれかと思ふから、全部言ひ切つて了ふ必要がなくなつてくる。「うたて此の頃」と言へば、「うたて此の頃恋のしげしも」を略した形だと誰の目にも訣る。かう考へて来ると、前の解釈はあれは平安朝流の解釈だといふことが考へられるであらう。かうして重ねて使つてゐる間に、自らうたて[#「うたて」に傍線]の用語例が定つて来る。つまり何時でも類型表現をするから、副詞価値が自然に定まるのだ。同時に、「恋のしげしも」と言はなくても、其が「うたて此の頃」と言つた言葉の中に含まれてゐるといふ事を感じて来る。はつきりどの言葉を省いたとは訣らなくとも、さういふ傾向の、さういふ内容の言葉を省いてゐるといふことだけは訣る。その省いた形が、三日月の歌の様になつて表はれる訣だ。さう定《キマ》ると同時に、其言葉には非常な負担を持たせるといふ事になる。もとはひどく[#「ひどく」に傍線]、とてもひどく[#「とてもひどく」に傍線]、程の意味が、省かれた語の内容まで負担して来るので、ひどく情けない、ひどくうとましいなどの意味だと思はれて来るのだ。語原論といふものは、語原を尋ねてゆくとき、その又先に、語原があることを忘れてゐる。で、今の知識で、時に合理的に適合するといふだけで、言葉そのものと、其を解釈しようとする頭との、時代が違つてゐるのだから、不自然が起るのは寧当然である。上には上の語原がある。だからこゝの例も、これでうたて[#「うたて」に傍線]の説明が出来てゐるとは言へない。
うたゝ[#「うたゝ」に傍線]の次に来る言葉が、情けないの意味でないうたゝ[#「うたゝ」に傍線]がある。源氏物語の例に、(源氏だとか、枕草子だとかは、成立年代もはつきりしてゐるが、他のもの、例へば宇津保物語にしても、狭衣物語にしても、果して其時代に出来てゐるかどうかは問題になる点が多いので、言語の歴史を正確に見てゆかうといふ資料としては不安である。)
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「いとうたてゆゝしき御ことなり。などてか、さまではおはする……」(源氏、柏木)
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普通は、「非常に情けなく嫌な事です。何故そんなにまでして……」といふ風に解釈して居る。此文章を見ると、うたて[#「うたて」に傍線]がゆゝし[#「ゆゝし」に傍線]を形容してゐる様に見えるが、或はうたて[#「うたて」に傍線]もゆゝし[#「ゆゝし」に傍線]も同格なのかも知れぬ。つまり「うたてくもあり、ゆゝしくもあり」と見るので、さう取るのが通例になつてゐる。併しうたて[#「うたて」に傍線]は大抵の場合、極端なる副詞である。だから、こゝもゆゝし[#「ゆゝし」に傍線]を限定して、「ひどくゆゝしい」といふ事でなければならぬ。どこかでうたゝ[#「うたゝ」に傍線]の古い意味を利かして使つてゐるので、時々、古い意味が反省されては、使はれて来る。うたて[#「うたて」に傍線]はひどい[#「ひどい」に傍線]ことだけれども、大抵の場合「
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