様な、此歌の類型歌が出て来、此類型が頭にこびりついてゐて、どんな機会にも、其が起つて来る。即ち昔は我々の文学観とは違つて、知識としての価値を認めてゐたのである。とにかくこの二首は結局同じ歌だ。恐らくは、昔の人も、さう解釈してゐたであらうと思ふが、之を先の「けなばけぬかに」の論からゆけば、生ひば[#「生ひば」に傍線]は条件である。で「去年の草に、今年の草がまじつて、生えさうにしてゐる」と言ふだけかも知れぬ。我々は、どうしても後世の聯想に災されて、其もう一つ前の考へ方を見るのは難しいが、さう取るのが本道だらう。つまり「生ふるかにあり」で、生えさうにしてゐる、といふのだ。
言語といふものは、同じ時代の同じ語でも、感じ方も使ひ方も違つてゐるといふものがある。だから、昔の言語に対して、今の感じ方で推して行くといふことは安心出来ない。譬へば又、人麻呂の歌に「ゆくへ知らにす」(巻二)といふ句が出て来る。之は理屈からもあるべき語法である。知ら[#「知ら」に傍線]は知る[#「知る」に傍線]の第一変化、に[#「に」に傍線]は否定の助動詞の第二変化で、中止法によく使ふ形。知らないで、つまり、知らない[#「知らない」に傍線]の中止形、其にす[#「す」に傍線]をつけた。知らないでゐる、訣らなくしてゐる、と言ふのだ。此例も決して多くはない。併し我々は、ごく僅かでも、祖先の用例を探し出して来て、だん/\仮説を立てゝゆく様にせねばならぬ。非常に流行して使はれた語でも、すぎ去つて了ふと、ぽつつり一つだけ残つて居る。言語現象は、常に流行である。我々は流行を呪ふ立場にあるけれども、言語の流行は、我々が長くかゝつてやる仕事を、短い間にやつてのけて生活に取込むといふのだから、普通の文化生活とは這入つて来方が違ふ。だから危険だけれども、無暗に動いてくる。その熱情が我々を脅すのだ。併し、ともかくも、さうして流行してゐるうちには、やがては円満な語になり、普遍性を持つて来る。さうなると、もう其を使はずには物が言へぬ様になつて了ふ。で、此「生ひば生ふるかに」の例を見ると、文法意識が変つて来て、既に、「生えるなら生えるにまかせておけ」、といふ意味に理会して居る。此変化の現象は、之からの文章を解釈して行かうといふ人の是非とも心得なければならぬ要点で、常に、昔の意味と、今の意味とを考へてみることを忘れてはならぬ。さうでなかつたら、何時まで経つても、今の意味の解釈ばかりで、昔の人の気持は、少しも訣らぬといふことになつて了ふ。民族精神などといふ問題も、実は、この言語の理会を外してゐては考へられぬ。昔使つてゐた意味が適確に訣らずに、昔の人の気持が理会出来る筈はない。近代の論理で昔の人の気持を忖度してゐる、といつた誤解はかなり多くして居ると思ふ。今は、文法的に何と解してゐようと、昔は、其通りに解してゐたのではなかつたかも知れぬのである。

       六

時代を少し下げて、平安朝の例を採つてみよう。言語といふものは、永い間に亘つて生きてゐる事もあり、生れて、直ぐ死んで了ふのもあるし、又、一方では死んでゐながら、他方では生きてゐるといふものもある。方言などをみると、その生滅の端倪すべからざるものを残してゐることが訣る。だから、言語の生命は簡単には論ぜられない。平安朝の言語とは言つても、平安朝の文献に出てゐるといふ消極的な事実だけで、其が奈良朝にはなかつたとまで言ひ得ない。寧、あつたと言つた方がよい、といふものが多いかも知れぬ。併し又、形は古くとも、後世からあてはめて使つた、といふものがあることも注意せねばならぬ。「けなばけぬかに」といふ語の、形そのものは古いとしても、その人気によつて、新語をも、その形にあて嵌めて了ふ、といふ類だ。此いゝ例は狂言記の言葉で、室町時代の語法だと言はれるが、決してさうばかりではない。その中の言葉は、近代まで改作が行はれてゐる事実があるのだから、之を早急に室町時代の言語として見ようといふのは間違ひである。実際には、室町の狂言の型だけが残つてゐて、其型に嵌めて語を作つて行つて居るのだから、つまり室町の擬古文なのだ。だから、狂言記を基として室町の語法を研究するといふこと程、無謀なる危険はない。其と同じく古代の歌や文章は、殆ど擬古と類型であると言つていゝ。譬へば人麻呂でも新語などいふものは、実は、無いのだと言つた方が本道だらうと思ふ。古い語に似せてゐるのにすぎないが、たゞ其中には、何か新しさを感じさせる彼の性格といふものが漲つて居る、といふことは、確かに言はれよう。だから、平安朝でも、其例には洩れず、古い型か、それとも古い型に嵌めたのかは、容易に断言出来ない。
[#ここから2字下げ]
言へばえに 言はねば胸にさわがれて、心ひとつになげくころかな(伊勢物語)
[#ここで字下げ終わり]
の歌。えに[#「えに」に傍線]は不得《エニ》即ち不能といふことで、こゝは「言へば言ひえに」を略してゐる。「言はうとすれば言へぬし、といつて言はずにゐれば胸がわく/\する」と言ふのだ。今日の文法では、いはゞ[#「いはゞ」に傍線]と言ふが、かうすると、条件の呼応がうるさい。一体、「花咲かば行かん」「花咲けば行く」などの条件の呼応といふこと程、理由のない事はないと思ふ。我々には、もう全然無意味で、憎らしい程だが、昔は、此呼応があつたのである。平安朝などでは、表面はそれでも割合に超越してゐるが、もう一つ前になると、之に捉はれすぎてゐて、想像に言はうとすれば、前以て、其に呼応すべき条件を置く。だから、「いはゞ」ではうるさいので、「いへば」と普通の型を取つてゐる訣だ。ともかく、こゝは、「言ひえに」とだけ言へばよいところを、言へば[#「言へば」に傍線]といふ条件をつけて居るので、此条件のつけ方は、先の「けなばけぬかに」に似てゐる。後には、之も亦、要らぬものになつて省いて了ひ、えに[#「えに」に傍線]だけになつて、此語が非常に拡がり、多くの用語例を持つてくる。通例はえンに[#「えンに」に傍線]と訓んで「艶」の字を宛てたりする。今昔物語(平安から鎌倉にまたがつて出来たものと見る)によると、艶の字を書いて、えならぬ[#「えならぬ」に傍線]・えもいはぬ[#「えもいはぬ」に傍線]などと訓んで居る。え[#「え」に傍点]は艶の字の意味ではないが、恐らくは、えンに[#「えンに」に傍線]と艶《エン》の音とが似てゐるところから聯想して、更に濃厚にえンに[#「えンに」に傍線]の意味を出さうとして来たからであらう。だから既にえンに[#「えンに」に傍線]には艶つぽい、派手なことの内容を持つてゐながら、而も昔の意味にも捨て切れないものを感ずるところから、今昔の様な訓が出て来るのだ。さういふ風に、たつた一種しか例のない「けなばけぬかに」でも、痕跡だけは、こんなところにまで残つて来て居り、之らを集めて比較研究してゆけば、ゆけるのである。
今は口の上の言葉は問題にしてゐない。問題にしようにも、古代・中世のものでは材料が無いのだから、文献に頼るより仕方がない。文献に残つて居るものは、根本は、どうしても文学意識が働きかけて、言葉を選択して、保存して行つて居る。古い書物を見ると、我々の祖先の言葉の選択は、偏頗といふか、単純といふか、とにかく語の数が非常に少ない。一寸変つた語が出ると、此方がびつくりする程に使はれる。祝詞などを見ても訣る様に、同じ語ばかりが出て来る。万葉でも、白い浪ではなくても白浪と言ふのは、文学語として此語を取り上げてゐた訣で、馬といふ為に赤駒といふ表現をして居り、これは次第に趣味が変つて、青馬などとも言つて来る様になつてゐる。髪の毛ならば、必ず、黒髪といふ。之等は昔の人の好み、単にさうした語が好きだつたといふだけで、意味はないのである。枕詞も最初の話の様に、あんな必要が出て、色んな意味がくつついては来たが、結局は歌の一部分になつて了つて居る。文学語――知識としての要素の強い――として枕詞を取り込んで来たのだ。
此文学語として枕詞の、発達の最初にゆきついたのは何か。其は地名である。地名を文学化し、文学風に考へるといふ歓び方が出て来る。つまり枕詞は、最初は土地か、神か、人間かの讃詞であつたのが、次第に意義が変化して来た。さうなつても、何時までも土地・神などに纏綿する考へは失はず、どうかすると、其が復活する。だから枕詞と土地の神とは引き離すことが出来ない。さうして最後には歌の上に、其土地の美しい地名を詠み込んで来る。悠紀・主基に卜定せられた国の郡の中で、特別に音のいゝ、美しい聯想を起しさうな地名を、後には書き遺して居る。之を仮に注進風土記などと名づけて居るが、之等を見ると、悠紀・主基の、美しい豊かな聯想を抱かせるくらしっく[#「くらしっく」に傍線]な地名が並んで居る。其を歌に詠み込んだのだ。歌に詠み込む為に、さうした風土記を献らしめた訣で、謂はゞ、悠紀・主基の歌を作る種である。かうなると、我々の実生活とは関係が無くなるが、そこまでゆかぬうちに、既に、我々と関係深い言葉の中に、文学語を多く入れてゐる。文学語を好む気持で、文献に遺し、さうした語の中から取り上げて文章を綴つて行つたのである。かやうにして言語を選ぶ能力が進んで行き、結局、注進風土記を作り上げたといふ事になる。とにかく言語の中に霊的な、神聖な、香の高い、昔風の懐しい、心の緊きしまる様な、色好みの豊かな感覚を起させる言葉を織り込んでゆく事が多かつた。之が当代の歌言葉の非常に少なかつた理由である。

       七

語原論の中には、どうかすると忘れられてゐる部分がたつた一つある。其は略語である。古い時代には、此略語といふ現象が、相当に多い。今残つて居る語を見ても、昔の音のまゝで、たゞ様式が少しゆがんで来てゐるのだ、と決めてかゝると訣らないものが多い。昔でも、既に、出来てゐる語を略して了ふことが多かつたらしく、譬へば祝詞・宣命に出て来る「かむながら」といふ語である。(宣命は奈良朝まで上れるが、祝詞全文はそこまでは上れぬ。祝詞には所々に象嵌があつて、全部が奈良朝のものとは信ぜられぬ。併し、其象嵌でない部分を見出すことは、研究次第で出来る。)此語は、非常に意味が拡がつて、結局、訣らぬ様になつて了つて居る。天子の、此世の中をお治めになる御行状を惟神と見て居り、「かむながらおもほしめす」などと使つてゐるが、此用語例も、既に末期のものであらうと思はれる。宣命は最古いものだが、之ですら、もう擬古的の使ひ方をしてゐる様だ。惟神とは、天子御自らのお気持を表はすものではない。「自分のすることは、自分がするのではなくて、神がなさるのだ」といふ風の条件を、御自分の行状につけて、仰言《おつしや》つてゐられる事に使ふのであり、天子が臣下にお下しになるお言葉には、必ずくつついてゐた語に違ひない。「この自分の言つてゐることは、神が言つてゐるのだぞ」と仰言られる訣だ。之が大抵の場合は惟神だけで、すぐ其後につくべき動詞を省いて居る。万葉集などでも、矢張、既に末の用法で、非常に自由に使つて居る。さうして組織の違ふかむから[#「かむから」に傍線]などいふ語に近づいて行つてさへ居るのである。本来は、「惟神……する」と言はねばならぬのを、始中終使つてゐるうちには深い内容を自ら蔵して来る故に、惟神とだけ言へば、その持つてゐる内容は訣つて了ふ。「惟神の道」といふ語には、だから、非常な飛躍がある訣で、たゞ惟神といふ単語を、いくら解剖してみた所で、ある点までしか訣らない。もう一つ例を挙げると、をす国[#「をす国」に傍線]といふ使ひ方がある。をす[#「をす」に傍線]は食ふの敬語で、非常に広い用語例を持つて来て居るが、之は単なる敬語では決してない。天子が天上から此国へ下つておいでになつた真の意義はどこにあるかといふと、天の神のおあがりになる米をお作りになるのが御使命であらせられた。此事を人間的に解釈すれば、天の下を自分のお国になされる為にお出でになつたとなるが、要するに神の御田をお作りになるのである。つまり、天[
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