[#「あり」に傍線]を省いてゐる言葉と訣つてゐるのに、「……であるのに、それにも拘らず」といふ意味に用ゐて来る。
ね[#「ね」に傍線]といふ語も之と同じで、「人こそ知らね[#「知らね」に傍線]かわく間もなし」などは、この法としては、知らね[#「知らね」に傍線]で切れる筈であるのに、下の語に続いて居る。
かういふ現象は、長い間の習慣の結果である。万葉集のなくに[#「なくに」に傍線]の中に、「……なのに」などと訳さねばならない用法があるのは、意義の変化、聯想の変化であつて、少くとも此変化だけは知つておかねばならぬ。平安朝に入つては、もうあり[#「あり」に傍線]の下についてゐた事を忘れて了つて、悉くが、「……なのに」の使ひ方になつて了ふ。
かうした例は、まだ多くあるが、もう一つあげてみると、例へば我々が、ゆゝし[#「ゆゝし」に傍線]などと言つてゐる言葉は、本道はゆゝし[#「ゆゝし」に傍線]だけで完全な意味があるのではない。少くとも奈良朝からあるが、これは宗教的な言葉で、言ふことも慎しまれるといふ気持である。全体に、副詞は抽象的で概念的なものが多いが、此言葉も非常に抽象的な言葉だから、具体的な
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