のだから、略しても皆に訣るのである。京都の貴族の中にも、始中終宮廷に出入りしてゐる様な人にだけ、訣る範囲で整理して使つてゐる。だから略語がいくらも行はれてゆくのだ。言葉をいくらも造る代りには、一方にいくらでも忘れてゆく。一種の失語症で、譬へば、もの[#「もの」に傍線]といふやうな言葉を、無暗に使つて居る。尤、それで訣つたのでもあらう。とにかく、出来るだけ言葉を省かうとする一種の努力――といふよりは、懶惰な力が漲つて居る。其を考へなければ、平安朝の物語類に出て来るうたゝ[#「うたゝ」に傍線]は訣らない。こゝまで考へてくれば、始めて、宣長が平安朝式にうたてあり[#「うたてあり」に傍線]と訓んだのも、幾分は助かつてくる。つまり、ひどい[#「ひどい」に傍線]と解釈すれば訣るのである。
平安朝に、幾らでも出て来る語に今一つあさまし[#「あさまし」に傍線]といふ語。源氏物語の語彙を、嘗て集めてみようとした事があつたが、其を止めさせて了つたのは、このあさまし[#「あさまし」に傍線]があんまり多くて、切りがないからであつた。之も大抵は、近代の意味で情けないとか、人の事を非難して諦めの気持を持つたといふ
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